Betrayal



すっかり気を失ってしまったアスランを腕に収め、キラはひとり余韻に浸っていた。涙の痕にそっと触れるとアスランが微かに動いた。汗で張り付いた髪を一束ずつ払ってやる。初めて見た寝顔は思ったよりも幼く、美しいというよりは可愛らしいといった表現の方が正しかった。素肌が触れ合い、それが心地よかった。

最中は拒絶し続けたアスランだったが、意識の無い彼女はキラの手を離そうとはしない。大人しく腕の中で静かに眠っている。細かく長い睫が水気を帯びていた。肌に触れないようにして拭ってやるとアスランの涙が指に付着した。

水気を帯びた睫が微かに動いたと思うと、アスランの翡翠をはめ込んだような瞳が姿を現す。何度か瞬きを繰り返すと瞳を閉じた。繋がれた手を離すと力なく手足を放り出す。しかしキラが彼女に声を掛けようと口を開いた瞬間、彼女は勢いよく彼を突き飛ばした。

奇妙な声を出してベッドから転がり落ちるキラは下着姿だった。派手な色のそれは色のないアスランの部屋には不似合いである。鈍い音と共に叩きつけられると、キラは痛みを与えた人物を見上げた。

キラが笑顔で挨拶をしても、アスランは彼を見下ろしたまま口を噤んでいた。体を隠してゆっくりと立ち上がる。隠せていない胸元や首にはキラが付けた鬱血の痕があった。

「……最低男!」

アスランがやっと口を開いたと思えば並ぶ言葉はキラを罵声するものだった。血の付いたシーツが生々しい。キラが与えた痛みだった。怒りに身を任せたアスランがそっぽを向いたが、キラが頬を包んで自分の方へと向かせた。

「アスラン……」
「あんな無理矢理……最低すぎる。痛くて……怖くて」

涙を帯びる瞳にキラは胸が高鳴るのを感じた。彼女の言うとおりだった。アスランを傷つける抱き方をしたことは認める。シーツを持つ手が小刻みに震えている。心の準備もなく、初めて体験したうえ、ひどい抱き方をされれば恐怖を感じるのは仕方がないことだった。全て溺れてしまったキラの責任だ。

「痛いって言ってるのに止めてくれないし、嫌だって言ったのに……!」

アスランの瞳からとうとう涙が流れた。キラは咄嗟にそれを拭う。流してしまうのは勿体なかった。彼女の涙は艶めかしい。涙は女の武器だと言うけれど、キラはそれが嫌いだった。泣けばいいと思っている女を軽蔑していたのだ。しかし、アスランは違った。これほどに涙を見たいと思ったのは生まれて初めてだった。

「ごめんね。手加減できなくて」
「……誰が許すか!俺のことなんか見てなかったくせに。自分が良ければ誰が相手でもいいん
――
「君だからに決まってるだろ」

キラが声を張り上げた。どこまでも勘違いをするアスランは言葉にしなくては分からないらしい。シーツで体を隠した彼女の腕を引き、強引に抱き寄せた。アスランは簡単にキラの腕の中に収まる。

「止められなかったんだ……結果的に君を傷つけちゃったけど、僕自身わけがわからなくなった」
「開き直るな……」

吐息混じりの声にアスランの涙は更に流れていく。キラを拒絶し続けていた手はしっかりと彼の手を掴んでいた。彼の感情は最愛の人と別れて寂しく思っている一時的な物だとわかっているのに、真剣な言葉に心が解けていく。

キラはアスランに顔を近づけていく。彼女の頬を伝う物は痛みや悲しみではなかった。彼の言葉に喜んでいる自分と、彼の思惑通りに動いてしまっているという悔しさが混じっている。ひどい扱いを受けたというのに、結末は見えているというのに、感情を抑えることが出来なかった。アスランは彼に填ってしまったのだ。

アスランは彼の口付けを受け入れるという意味をこめ、そっと瞳を閉じた。賭けはやはり彼女の負けのようだ。

しかし唇が触れ合う寸前に騒々しい音が室内に響き、それは失敗に終わる。キラとアスランが同時に視線を向けると、そこには見慣れた顔があった。

「シン……」
「何……してるんだよ、アンタ達」

静かなる怒りに拳を握るシンを見てアスランは息を呑んだ。アスランが口を開こうとするとキラが彼女の肩を叩き、静かにそれを遮る。

「君が想像してるとおりのことしてたんだよ。何か問題でもある?息子」

挑発的なキラの言葉にアスランが彼の腕を引いた。彼の存在はただでさえシンの怒りに触れるというのに、軽視する態度はそれを助長するのに十分だ。わざとやっているようにしか見えなかった。

「シン……」

俯いたシンの表情はキラからもアスランからも窺うことが出来ない。アスランは彼の顔を覗こうとゆっくりと彼に歩み寄る。体中が痛みを訴えていたが、壊れそうな彼を放っておくことはできない。キラに任せておいても火に油を注ぐのは明らかだった。

アスランが彼に手を伸ばすと、シンは彼女を拒絶するようにそれを叩いた。想像以上に大きな音が室内に響き、キラの驚きの声がアスランの耳に届く。

「アンタは嘘つきだ。俺がどんな思いでここに来たか知ってるくせに。この男はアンタを捨てるんだぞ!俺は母さんの苦労も不幸も知ってる。なのに」
「シン……」
「結局こうなるのかよ。どうしてその男を選ぶんだ!なんで……」

シンがやっと顔を上げた。涙に濡れ悔しさと悲しさがそこに現れている。アスランは叩かれた手を押さえていた。キラは嫌な予感がし、シンを止めようとするが、それは叶わなかった。

「なんでアンタが俺の母親なんだ!」

怒りに満ちたシンの瞳。そして叫ばれる言葉にアスランは耳を疑った。奈落の底に落とされるような感覚が走り、息をすることを忘れた。シンが何を言ったのか理解できないのに、全身が震えていく。

シンは叫ぶとアスランの表情に気がつき、一瞬訂正しようと口を開いたが、結局彼女を突き放してその場から去ってしまった。それを見たアスランがシーツ一枚にも拘わらず彼を追おうと踏み出したが、キラが咄嗟にそれを阻止した。後ろから抱きしめ、身動きが取れないように拘束する。そこに性的な意味はない。

「シン!嫌だ!離せっ……シンが、シン!」

腕の中で暴れるアスランを落ち着かせようとキラは彼女の体を反転させて強めに抱きしめる。それでもアスランはシンの名を紡ぎ、キラから逃れようと藻掻いていく。キラは何度も暴れる彼女を拘束してきたが、それが本気ではなかったのではないかと思うほどにアスランの力は強かった。

「今の君が行っても逆効果だよ。それくらいわかるでしょ!」
「でも、アイツに拒絶された……生きていけない」

取り乱すほどにシンは彼女の中で大きな存在となっていた。未来から来た大切な彼を、いつしか慈しむようになっていた。勿論恋愛感情ではないが、それよりも恐らくもっと深いもの。たった一つ守りたいと思っていたものだった。

「今すぐ追いかけたいのは分かるけど今は我慢して、彼に少し時間をあげようよ。僕も父親なんだ、ひとりで抱え込まないで、一緒に考えよう」

彼の口から紡がれたとは思えない言葉にアスランは彼を見上げる。言い聞かせる彼の表情は笑顔だった。いつもの含んだ笑いではなく、穏やかな表情にアスランは目が熱くなった。それでもシンの言葉が脳内に響き続けている。

「俺が母親じゃ嫌だって……」
「本心でそんなこと思ってるわけ無いでしょ。彼がこの時代に来たのは君のためだもん。君を誰にも取られたくないんだよ、僕と同じで」

流石親子だとキラが笑う。アスランは不謹慎だと思った。


28.母と子