母と子




あまりの湿度に制服のシャツが肌に張り付いてシンは不快だった。空は既に薄暗くなっている。徐々に色を変えるそれを見あげ、大きな溜息を吐いた。とりあえず飛び出しては来たものの、行く当てもなく結局近所の公園に辿り着いた。

公園にはブランコとカラフルなジャングルジムとシーソー、そして小さな噴水がある。シンはブランコに腰を掛ける。数年ぶりの遊具はとても小さな物に感じられた。軋む鎖に手を掛けると金属が擦り合う。夕方を過ぎ、そこには誰ひとりいない。いるのは時空迷子の彼だけである。

先ほど自身の口から発せられた言葉を思い出し、自己嫌悪に陥っていた。叩かれた瞬間の驚きの顔。暴言を吐いた時は驚きよりも悲しみの表情の方が大きかった。顔を歪め、涙を溜めていた。彼女の泣き顔をシンは見たことがなかった。

傷つけてしまったことに心から後悔していた。だが、許せない気持ちも存在している。どうして彼を選ぶのか。何度未来を買えてもアスランはキラを選ぶのだろうか。不幸になると分かっているはずなのに、彼の手を取る母親がシンは許せなかったのだ。

そしてそれ以上に、彼女を女性としてみていることから来る、息子としてではなく男としてのキラへの嫉妬。彼女を物にしたと言うことにはらわたが煮えくり返りそうになるほどの怒りが込み上げた。

しかし、恐らく彼らが行為に及んでいる間、これまで以上にないまでの温かく包み込まれるような感触が彼を襲った。あまりの温かさにそのまま何かと融合してしまいそうなほど心地いい感覚。そして父親と母親の感情が流れ込んできた。それは言葉に表せるものではなく、霞んでいた。

彼らの子供であるからわかることだったが、シンは知りたくなかった。アスランがキラを好きになってしまったということを、彼女が気づく前から知ってはいたが、認めようとはしなかった。一時的な物だと願っていた。無惨にも彼の思惑とは逆に動いてしまったが。

決して自分の抱く感情が実を結ぶことなどないことを知っていた。しかし、手を伸ばしたくなってしまった。それを後ろから奪われたシンは自分の怒りをキラに向ければいいのか、アスランに向ければいいのかわからなかった。

アスランに向けた結果、帰ってきたのは歪んだ表情。シンが望んだ表情ではなかった。

「母さん、また仕事?」
「そう。明日から一週間海外で研究会があるから。カガリの言うこと聞いて……わかった?」

シンの母親は、物心付いた頃から仕事ばかりだった。いつも傍にはヘルパーのロボットがいて、彼の面倒を見ていた。勿論人間のヘルパーもいた。祖父もいたが、母親は研究に没頭し、ほとんど顔を合わせることもなかった。

「お土産買ってくるけど何がいい?」
「……母さん」

幼い頃は寂しいと離れたくないと駄々をこねた。しかし年を重ねる事にそれを口にしても無駄だと言うことを悟る。そして彼女が自分よりも研究が何よりも大事なのだと思っていた。

「どうしてうちには父さんがいないの?」

シンには何でも教えてくれた母親が初めて言葉を詰まらせた。そしてこれまで見たことのない表情を浮かべる。悲しそうな母親の顔を彼は初めて見たのだ。泣きそうに歪んだ顔。そしてそれを見せまいとシンを強く抱きしめた。そこで彼は悟った。父親のことは口にしてはならないのだと。

だから彼は父親など必要ではないと思うことに決めた。しかし相変わらず研究に忙しい彼女は放任で、溝は深まるばかりだった。家にはほとんど帰らず、補導された回数は数え切れないほど。しかしいつも迎えに来るのは違う人間。

「アスラン……シンにはやっぱり父親が必要だ。アイツにとって俺は父親みたいなものだろう?他人がなってもアイツはきっと反発する。俺なら」
「カガリ……」
「一緒になろう。シンのために」

シンのために、シンのためにと言いながら、彼が自分の欲のために彼女を手にしようとしていることをシンは知っていた。それは幼い頃からずっとだ。色目を使い、幾度となく求婚する、それが彼のやり方だ。

そんな時、シンは父親の存在を知ることとなる。国家機密である母親のファイルを偶々目にしてしまった。そこに挟まっていた写真。写っていたのはカガリにどことなく似た、青年。そして彼の肩に抱かれているのはシンを宿したアスランだった。

父親の存在にシンは興味を持ち、国家機道であると知りながら、ファイルに目を通してしまった。そこで母親が表向きとは全く違う物を研究していたことを知る。彼女は時空を超える研究をしていたのだ。他にもファイルの中にはたくさんの資料があり、シンは彼女の想いを知った。

「シン、やめなさい!それをこっちに渡すんだ。それが何かわかっていないだろう」
「知ってるさ。過去を遡るんだろう!」

彼は決意し、実行した。母親の未来を変えるために。シンはアスランが何よりも研究が大事だと思っているのを知っているため、研究を台無しにされて怒ると思っていた。しかし、それは彼の思い違いだった。

「シン……シン!待って……待ってくれ……置いて行かないで」

悲鳴にも似た母の声と必死に手摺から伸ばす手。そして落ちてくる涙。シンはそこでやっと自分がどれだけ母親に必要とされていたかを知る。そして、その瞬間全てに後悔した。

彼女は二度と帰ることが出来ないようプログラムしていたのかもしれない。だからこそあんなに必死になったのか。今となってはもう確かめようもなかった。

不意に頭上に機械音が響く。時折鳴声を出すそれに視線を向けると、見慣れたロボット鳥が空を舞っていた。

「トリィ?」

シンがそっと手を伸ばすと、トリィは羽ばたきをした後に彼の手に留まった。名前を呼ぶと首を傾げて大きな声で鳴く。いくらトリィが優秀なロボットとはいえ、ひとりでシンの元まで来るというのは考えがたい。シンは小さな期待を胸に周囲を見回した。すっかり暗くなってしまい、あまり見えなかったが足音が複数、彼の元に向かっている。

聞き慣れた声が彼の名前を呼び、シンは振り向いた。予想通り、未来の母親がそこにいた。彼を見つけて安心した表情を浮かべている。その表情はまさに母親だった。首元をなるべく露出しない服装は、痕を隠すためだろう。気にしないふりをして、シンは彼女をまっすぐに見つめる。

一定の距離まで来ると、アスランは足を止めた。シンは何を言われるのか緊張しているとアスランの手がぎこちなく動いていく。触れようか触れまいかと迷って、何度も奇妙な動きを繰り返していた。そしてシンが彼女に視線を向ける度に視線を逸らす。人と触れあい慣れていない彼女は、シンからの拒絶にどう対応していいのか分からないのだ。

「すまなかった……。君の気持ちを踏みにじるようなことして。俺は……」
「……謝らないでください」
「でも……俺は最低だ。お前の思ってるとおり、母親に相応しくない」

シンはアスランの言葉をすぐに否定した。出会った頃は違うにしろ、今の彼女は当時より随分と成長した。彼の知る母親よりもずっと母親らしい。シンが欲しかったのは偉大な研究をする母ではなく、ずっと一緒にいられる母親なのだ。

「俺は……あなたがいいです」

愛の告白にも似た台詞にシンは唇が震えた。何を言っているのか自分でもわからない。しかし、この運命にはどうしても逆らえないことを悟った。すると体の奥から何かが吹っ切れる音がする。

「さっきは驚いて、あんなこと言っちゃったけど、ちゃんと考えたらやっぱり俺の母さんはアスランさんで、それ以外考えられなくて。だから……その」

シンは口籠もった。あともう少しと言い聞かせて拳を握る。

「俺はあなたに生んでもらいたい!」

思ったよりも大きくなってしまった声に、シンは急に恥ずかしくなった。横目でアスランを見ると、目を見開いて、しかしすぐに下唇を噛んで涙を堪えている。拒絶された後に受け入れられることは、何よりも彼女を安心させるのだろう。アスランは手を伸ばすと、シンの手を握る。

シンがそれを握りかえすと、アスランは彼を強く抱きしめた。シンは幼い頃に父親のことを聞いて抱きしめられたことを思い出し、目頭が熱くなる。アスランはその時の母親と同じ匂いがした。やはり、彼女は紛れもなくシンの母親なのだ。そう思うと彼は嬉しさが込み上げてくるのを止めることが出来なかった。

「君の気持ちはよーくわかったよ、息子」

どこからともなくやってきたキラはシンの肩を強めに叩くと、ごく自然にアスランを奪い取る。腰を抱くと簡単にアスランを自分の元へと引き寄せてしまう。アスランが引き剥がそうとしても、強い力で引っ張り、彼女が訴えても笑顔を浮かべるだけだった。

「何でアンタもいるんだよ」
「いいじゃん僕も家族でしょ」
「アンタなんか家族じゃない」

シンがキラを睨み付けても、キラは表情を変えなかった。

「何言ってるのさ。誰から生まれたいだの、誰を生みたいだの言っても、アスランだけじゃ息子は生まれないでしょ。僕が父親だからこそ君が生まれるのであって、他の男じゃ無理だね。つまり、君が僕のアスランから生まれたいなら、僕を受け入れなくちゃならないんだ」

僕という言葉をいちいち強調させ、キラは空いていた手もアスランにまわす。それに気づいたアスランが肘で攻撃するが、彼はめげなかった。確かに彼の言葉は正論だ。シンという存在はキラとアスランがいて初めて生まれる。どちらが欠けても、生まれることはないだろう。つまり彼はシンがキラとアスランのことを認めたと解釈してしまったのだ。

「さて、これから頑張らなくちゃね、アスラン」
「何をだ」
「子・作・り」

人差し指を頬に付けて可愛らしく首を傾げるキラを見て、シンとアスランは青ざめていく。いつからか、シンとアスランの願いとは遠く離れた場所へと来てしまっていた気がした。そしてここはキラの領域である。二人はその中で躍らされているだけだった。

アスランが腰を掴むキラを見上げると、キラが彼女の髪に唇を落とす。触れられる左の指はどう足掻いても離れなかった。その痛みと体温が今のアスランには心地いい。痛いほどに掴まれた腰も悪くないと思ってしまった。

「ま、それは帰ってからのお楽しみとして。君は先に帰っててくれる?」

キラの言う君とは、アスランのことだった。すんなりと彼女を解放すると先ほどよりずっと明るい笑顔を浮かべている。彼女が反論しようとすると、もう一度今度は強めに彼女に催促をした。

「男同士の深い話があるから」

キラはアスランから離れ、シンの隣へと移動した。そして彼の肩に手を回す。いつもアスランにしている行為だった。キラより身長の低いシンはいきなりの彼の言動を訝しむ。対照的な表情を浮かべながらも、やはり彼らはどこか似ている。

「俺はな――」
「うん、でも僕はあるんだ。付き合ってくれるよね?」

あまりの威圧にシンは思わず首を縦に振ってしまった。それはいつも向けているものとは明らかに違っている。彼に向かっていって地面に叩きつけられる瞬間の軽視した表情とも、アスランに向けるものとも違っていた。

アスランが完全に見えなくなり、帰ったことを確認すると、シンは不機嫌を露わにした。彼と二人きりになるなど嫌で嫌で仕方がないのだ。アスランとは仲直りしたものの、キラとアスランの仲を認めたわけではない。未だにシンは父親を憎んでいるし、許せない。アスランが彼にどういった感情を抱こうとそれは変わらなかった。

「俺はアンタとアスランさんの邪魔をするの、止めた訳じゃないからな。子供なんか作らせるもんか」

嫌味たっぷりに噛みつくシンにキラは興味なさそうに返す。反論を予想していたシンは拍子抜けしてしまい、いつもキラがしているように彼を挑発してみようと彼に詰め寄る。

「僕はそんなことどうでもいいんだ」

満面の笑みを浮かべていたキラは、一瞬にして無表情になる。シンが今まで見たことのない、冷酷な表情だった。キラであることすら分からないほどに冷たく鋭い視線にシンは後退りをしてしまう。

「アスランのこと……女として好きでしょ」

腕を掴まれ、シンは振り払おうとするが、思いの外強い力に拘束され失敗に終わる。見抜かれていたことよりも、肯定してしまうと命がないような気がしてならず、必死に首を横に振った。

「嘘はいけないなあ。嘘は。好きだよね。アスランのこと。普通母親にキスしないもん」

その言葉にシンは固まった。何故知っているのかと彼に視線を向けると、瞬きを一度もせず、何でも見通しているような瞳があった。心を読める力でもあるのだろうか。彼は急にキラが怖くなった。

「息子と一緒に住んでるって言うのなら許せるんだけど、アスランに色目使ってる男と一緒に住んでるって思ったら、殺したくなってくるんだよね」
「こ、殺すって……」
「僕の女にこれ以上色目使ったら、君のこと潰すから」

シンの胸ぐらを掴み、同時に息が出来ないように拘束した。これまでに見たどんな瞳よりも恐怖心を煽る。いつも相手にしているやる気のない男は、そこにはいない。余裕がないからなのか、彼は殺気に満ちていた。彼の言葉が本気であることを察すと、シンは彼から視線を逸らした。母親に反抗して不良じみたことをしていたとはいえ、胸ぐらを掴まれて脅された経験はなかった。そのうえ、脅しているのは父親である。

「わかった?返事は?」
「……はい」

彼はシンの返事を聞くと、口端を吊り上げた。そして何の前触れもなく胸ぐらを掴んでいた手を離す。重力に従順にシンの体が地面に叩きつけられた。先ほどの殺気満開の彼はそこにはいない。優越感に浸ったキラが満面の笑みでシンを見下ろしていた。

キラがシンのアスランへの気持ちに気がついたのは、ずいぶん前のことだった。それを確信したのはキラが苦しむシンを助けるためにアスランに口付けしたとき。引き裂こうとしている両親の口付けを自分が引き起こしてしまったことを悔やんでいたのは表向きで、本当は彼女がキラに口付けられた悔しさと憎しみに満ちていた。その視線は幾度となく向けられてきたキラだからこそそれがわかる。シンはやはり、父親であるキラよりカガリに似ている。

そして、何より今日、キラがアスランを自分の物にしてしまった場面に出くわした彼の言動と行動は息子以上の感情が込められていたことをキラは見逃さなかった。アスランは恋愛感情はなくとも、彼をキラよりも大切に思っていることが面白くなかったキラは、これを機に白黒つけようと考えたのだ。やはり、成功だった。

「……僕より先にアスランにキスしたなんて許せない。僕の息子なのに」

キラは拳を握り、シンを睨み付けた。アスランの薄く甘い唇をキラが味わう前に二人も味わっているのだ。それを思うと黒い嫉妬が沸々と込み上げてくる。見ず知らずの人間ならまだしも、見下している兄と自分の分身である。それが更にキラの自尊心を奪っていった。

シンはともかく、カガリはアスランのファーストキスだ。そのうえ大勢の前でアスランからという許せないシチュエーション。その時はさほど気にも留めていなかったが、アスランを意識するようになってから段々と許せなくなっていた。大勢の前ではともかく、アスランからのキスはいまだにない。脅せばしてくれるだろうが、それでは意味がない。アスランが自分から与えてくれなくては。

キラの長い前髪が紫の瞳を隠す。表情は見受けられないが、シンは恐怖を覚えた。シンはキラに何度も挑み、破れている。何度地面に叩きつけられたか、覚えていない。恐らくシンよりずっと力が強いことが窺えた。

キラが手を振り上げた瞬間、シンは痛みを覚悟して目を瞑った。しかし、どんなに経っても痛みは来ず、恐る恐る目を開けた瞬間に柔らかいものがシンを包んだ。それはキラの唇だった。唇に当たるそれにシンが叫ぶが、抑えつけられているため、消え去っていく。

どんなに暴れても、キラの体はびくともしなかった。そればかりか、口内に舌が入ってくる。熱く柔らかいそれにシンは抵抗する力を失う。舌で口内を犯され、鼻にかかった声を出してしまった。男相手になんという痴態だろうか。

その声に満足したキラはすぐさまシンを解放してやる。吐き気に襲われたシンが必死に唾を吐いている姿を見てキラは声を上げて笑う。面白くないが、これで帳消しにしてやろう。母親だけでなく父親にもキスをしているということでプラズマイナスゼロだ。アスランも気がついていないため、彼のキスはカウントしないでおくことに決める。

「何、そのレイプされたみたいな目。可愛い声出しちゃって、もしかしてディープキス初めてだった?」

キラの言葉にシンが顔を赤くする。図星らしかった。キラが彼くらいの歳の時は既に今の状態で、形振り構わず女性を抱いていた。初々しい彼が羨ましくもある。しかし、それ以上に男と深いキスを交わした彼は奈落の底に落とされた如く、沈んでいた。そんな息子を見て、キラはそれを自分の女のファーストキスをした兄にもしてやろうと決める。

「じゃあ帰ろうか、息子。仲良くね」
「アンタの家じゃないだろ」

そう突っ込みを入れてもキラは気に留めずに鼻で笑い、意気揚々と公園を抜けていく。それに付いていきながらシンは噛みついたが、キラはそれを無視して歩き続けた。

29.糸→