Bargaining of love


コップに付着した水滴を眺めてアスランは溜息を吐いた。目の前のプレートには三色のパスタが少量ずつ並べられていた。ほとんどそれには手を付けず、目の前でオムライスを頬張る人物を睨み付けた。食べているものは旗が立っている子供用である。やっていることはそれを食べるに相応しいが、年齢的にはもう大人だ。半熟のオムレツが赤いチキンライスに蕩け、それをキラは嬉しそうに頬張っている。対するアスランはフォークにトマトクリームソースのパスタを巻いたまま途方に暮れていた。

「おいしい?」
「まずい。お前がいるから」

一口も入れていないが、アスランは言った。隣のテーブルで食事をするトラックの運転手らしき二十代から三十代の男性二人組が深夜に制服姿で海岸沿いのファミリーレストランという明らかに不審な彼らを見て噂を立てていた。地獄耳のアスランには卑猥な言葉が一句一句耳に届く。店にはキラとアスランと彼ら以外にいない。人件費削減のために導入されているロボットが呼ばれるまでレジに待機している。

「なるほどね。まさか味覚も他人とずれてるのかと思った。君お嬢様だし、いっつも高級レストランとかで食事してるんじゃないの?」
「……確かにこういったところで食事をするのは初めてだな。外で食べるのは一年に数回だけだ。後は自分で作る」

躊躇しながらも答えるアスランはゆっくりめのトーンである。キラはそこに彼女の意図を見つけた。

「ふふ、時間稼ぎ?いつもなら絶対答えてくれないのに」

一秒でもこ長くの場にいようとアスランは藻掻いている。それを見抜かれて黙り込んだ。キラはアスランの手を奪い、フォークに巻かれたパスタを口に放り込む。指を掠めそうなキラの唇にアスランは小さく息を呑む。唇に付いたソースをキラが焦らすように舐め取った。

「欲情した?」

フォークを持つ手を拘束したままキラは嬉しそうに笑った。アスランが腕を引こうとするとキラは笑顔を向ける。作った笑いは彼女を不愉快にさせる。透けるような薄い髪はバイクに長時間乗ったことで癖がついていた。それでも嫌味なくらいにストレートだ。

「時間稼ぎならホテル行ってセックスする?」

キラの突拍子もない発言に、隣のテーブルがざわめく。その中に自分たちも混ぜて欲しいという至って遺憾な言葉を耳にしてアスランはテーブルを叩く。キラは反応しなかったが、隣のテーブルで聞き耳を立てている二人組は驚きの声をあげた。

「でも、行ったら賭の意味なくなっちゃうよね。君、僕の体に溺れちゃうし」
「お前の自信はどこから来るんだ」

アスランは既にキラを見直したことを後悔し始めていた。父親に訴えたときは胸が締め付けられるような感情だったというのに、今目の前にいるのはデリカシーがなくモラルの欠ける無意識男尊女卑思想を持った最低男である。少しでも意識していた自分が彼女は恥ずかしくなった。

それでも彼が何かをひた隠しにしようとして笑顔を浮かべているような気がする。しかし、深追いしても全く意味はない。彼とは交差してはいけない運命なのだ。自分の不幸が訪れるとシンは言った。絶対に彼に気持ちが行かないと思っていたからこそそれを流してきたが、段々と流れていく気持ちの中でそれはアスランがキラに走ることを阻止する枷となる。

「これまでの経験。みんなそうだったから」

アスランは影を落とした。彼が今、こうしているのも気まぐれだった。彼の経歴の一行にはなりたくないとアスランは強く思っている。それならば彼と関わらないのが一番いいのだ。

「そんなに嫌がらなくてもいいのに」
「お前は最低だ」
「……知ってるよ。多分僕が一番」

睨み付けるとキラが笑った。自嘲気味な笑顔は作り笑いではない。アスランは何か言おうとしたが、口にすることは出来ず黙り込んだ。仕方なくパスタを巻いて口に含む。しかしほとんど手を付けないままアスランは食事を終えてしまった。覚悟を決めて席を立つとキラが逃がさないと言わんばかりにアスランの手を引く。アスランが支払おうとすると、キラがそれを押し切ってにIDカードで食事を支払った。

再びエアバイクに乗せようとするキラをアスランは振り払った。スカートに手を折り込み、捲れないようにし、自分の覚悟をキラに見せつけたのだ。賭に乗った以上腹をくくらなければならないことをアスランは知っている。キラは何も言わなかった。

初夏だというのに海岸沿いは人気が全くなかった。夜明け直前の冷たく澄んだ風が袖から露出した肌を刺す。前に座っているキラとは違い、スカートのアスランは太股から膝にかけて風が当たっていた。

キラの気分なのか、風が強いからか、海岸沿いを走っているバイクは上空ではなく道路だった。いつもの目線から見える夜の海は薄暗く、地平線は紫色へと変わっていく。あと一時間もすれば夜明けが来ることが予想できる。キラは少し進んだところでバイクを停めた。

「着いたよ」

その声にアスランは息を吐く。空は夜明けの兆しを見せているが、まだ星が輝いている。街灯の点かないこの時間帯は辺りも見えないほど真っ暗だった。キラが手を差し伸べてもアスランはその手を取ろうとはしなかった。少しだけ俯いてから自分の足で降りようとする。それをキラが妨害した。

アスランを抱きかかえ、浜辺へと進んでいく。潮の香りがどんどんと濃くなる。キラは砂の上にアスランを落とした。紳士的とは言い難い乱暴な扱いだ。アスランは下から睨み付けるとキラが高々と笑う。

「卑怯な……!」
「何とでも言いなよ。賭は賭だ。最初の運転にしてはうまかったでしょう?」
「ふざけるな」

そう言ったきりアスランは口を噤んだ。砂に制服が汚れていることが気になったが、もう意味はない。設置された石段に座り込んだキラが大きく伸びをする。学校から連れ出されて丁度半日は経っていた。キラは携帯端末を片手に何かをしているようだったが、身一つで連れ出されたアスランは何も持っていなかった。ただ波の音と潮の香りと共にその場にいた。カウントダウンはもう始まっている。

徐々に白くなってきた地平線をキラとアスランは眺めた。海も段々と色を知っていく。人工の物とはかけ離れた自然の神秘にふたりは魅了される。何もかも忘れてしまいそうなほど、その景色はすばらしいの一言だった。

白が徐々に色付き始めると、燃えさかるような太陽が頭を出す。世界は人工的な物で溢れているというのに、太陽はそれとは全く関係なく変わらず地球を照らし続けている。明けない夜はないのだと誰かが言ったことをキラは思い出した。それは恐らくドラマの台詞だっただろう。くだらないことだと嘲ったが、この神秘的な景色を前にするとその言葉は確かにその通りだと思ってしまう。海も普段とは違う顔だった。静けさと荒々しさを持つ海だが、日の出のそれは、太陽と一体化していた。太陽は海から誕生しているかのように感じさせる光景である。キラはアスランがこの景色を好む理由が少しだけわかった気がした。

そうして隣に座るアスランを眺めると、アスランは細かく瞬きを繰り返しながらもまっすぐに太陽を見つめている。赤く照らされた髪がいつもと違う印象を与える。その表情が少し綻んでいるのを知り、キラは彼女の手をそっと取った。

アスランはいきなりの感触に太陽から視線をキラへと向ける。彼は彼女の瞳を見つめた。

「アスラン……」
「……わかってる。勝負は勝負だ。覚悟は出来てる」

彼の願い事を予想し、アスランは拳を握る。彼のことだから無理矢理自分の物にして飽きるまで弄ぶのだろう。彼に溺れることなど想像も出来なかったが、そうなることを想像すると恐怖を覚える。誰かに執着することになれていないアスランに彼は危険すぎる。自分がどうなってしまうかがアスランにはわからなかった。

「実は最初から決まってたんだけど。ちなみに、この約束は期限なしってことで」

死ぬまで守ってもらうからとキラは言う。太陽に照らされた笑顔は策士のものだった。まんまと罠にはまったのは自分である。彼の行動はいつだってアスランの想定外だった。

手を握られ、アスランは目を閉じた。波の音が迫り来る。キラの香水の匂いが潮の香りと混じっていく。半日も嗅いでいた匂いに鼻が慣れてしまっていた。こういった香りは本来好きではなかったはずなのに。何もかも変えてしまおうとする彼がアスランは嫌だった。

ゆっくりと目を開けるとキラの紫の瞳がそこにあった。交わる視線にアスランは息を呑む。包まれた手は動こうとはしなかった。そこにいつもの作り笑顔はなく至って真剣な表情だった。彼の真摯な表情を見るのは二度目だった。アスランは胸が熱くなるのを感じるが、必死に彼のことを否定し続けた。キラを知るのが怖かった。

「……僕の名前を呼んで欲しい」
「ほぁ?」

思わず間の抜けた声を出してしまうアスランは、想定外の要求に魂消てしまう。そして同時に拍子抜けしてしまった。肩に入れていた力が解き放たれると首が勢いよく前へと折れた。

「だから、僕の名前……!知らないはずないでしょ?」
「そんなことで良いのか?」

アスランが念を押すと、キラは声に出さずに首を縦に振る。いまだに真剣な表情だった。アスランは彼の心が読めずに困惑する。一番好きなことと引き替えにしてでも叶えたい欲求なのだろうか。まさか、彼の手口なのではないだろうか。がめつい印象を取り払わせ、そこにつけ込んで女を落とそうとする、そんな手法もあるかも知れない。現にアスランは再び彼を見直してしまった。

しかし、今のキラにはこれまでになかった真剣さがある。彼女の父親に刃向かったときにだけ見たそれが原因でアスランは考えることが出来なくなった。

「……うん。呼んで」

キラがアスランの頬と耳を包み込んでしまう。アスランは動揺が伝わらないように心がける。息を吸い込み、彼の名前の初めの音を発そうとするとキラが瞬きもせずに見つめてくる。アスランは急に恥ずかしくなり、彼から視線を逸らした。

「できない……」

改めて意識すると心が乱される。彼を名前で呼んだ記憶のないアスランにとっては当然のことだった。包まれた手が段々と熱くなっていく。

「約束破るの?卑怯なのはどっち?」

キラが責め立てる。負けず嫌いの彼女にとって卑怯な人間というレッテルを張られるのよりはずっといい。たった二つの音を発せば良いだけの話だった。体を捧げるわけでも、彼の所有物になるわけでもない。ただ口にすれば良いだけと念じ、アスランは小さく彼の名を呟いた。絞り出すような小声は波の音へと消えていく。しかし、至近距離で彼女を包んでいるキラには十分だった。

「っ……」

声にならない声を発し、キラはそれを胸へと当てた。いつもの比にはならない鼓動の速さと体中から込み上がる熱が彼を襲う。時が止まり、キラは目を閉じて余韻に浸った。半日掛けて確かめた想いにやっと答えが出た。それを知った瞬間にラクスの言葉も理解する。ラクスに求めていたのは彼女の言うとおり母親だった。それと対照的にキラがアスランに求める物は何一つない。ただ同じ気持ちでいて欲しいというエゴイズムだけが彼の心を占める。

「もう……一回」

キラの声に俯いていたアスランが弾けるようにして顔を上げた。その頬はほんのりと染まっている。彼女はキラの瞳を見て驚いている。キラは彼女の声を待った。

「キ……ラ」
「もっと……」
「キラ」
「もっと……もっと。もっと。もっと!」

キラが狂ったように彼女の声を求めた。体の芯から溢れ出す温かい感情に我を失ってしまいそうになった。すでに波の音も潮の香りも砂の感触もそこにはない。目の前にいるアスランだけがキラの五感を奪っていた。

「キラ……キ
――

彼女に心を奪われたと気がつく前に、キラは彼女に食らいつく。既に自分自身を制御できなくなっていた。アスランの小さな悲鳴がキラの口内へと吸い込まれていく。顎と後頭部を掴んで、逃げられないように強く束縛すると、アスランは足だけを動かして砂を蹴った。手はそれとは逆にキラの胸元を掴んでいる。

舌を絡めてもアスランは拒絶をしなかった。それに心を良くしたキラは彼女の熱を引っ張り出して甘く噛む。少し解放してやると舌の先端を出したアスランから糸が伝った。アスランは羞恥心からそれを指で拭き取り、手の中に隠してしまう。キラはそれを咲かせて人差し指を口に入れた。

キラが指を舐めながら上目遣いでアスランの表情を窺うと、眉を顰めて羞恥に耐える彼女がいた。指を引こうとするが男の力に負けてしまっている。彼女の整った爪と肉の間を舐めるとアスランが息を漏らした。

「いい加減に……」

最後まで言えずにアスランは強く瞳を閉じる。キラは彼女の初々しさに耐えられなくなった。この感情をどう表現したらいいのか分からず、もう一度唇を貪る。それだけでは満たされないはずなのに、答えが出た彼にとって肉体的な満足はどうでもよくなっていた。彼女の表情をもっと引き出したい。そちらの方がずっと快感だった。

彼にとって神秘的な夜明けの海よりも、彼女の宝石のような瞳の方がずっと綺麗に見える。その翡翠は空よりも深い青で、海よりも澄んだ緑だった。



25.終着点