10.ベストカップル


押してダメなら引いてみろ、とよく言うがこれは恋愛には重要なもので、ガンガン攻めても手に入らないものは入らない。わざと引いてみせるも手段のひとつだ。今まで言い寄ってきた男がいきなり言い寄らなくなってきたのだから普通なら何かあると思うだろう、そこでキラのことが好きだと気がつくかもしれない。

プライドの高い女によく多いことだ。今まで無計画なほどに攻めていたのは表面上。引いたときとのギャップをはっきりさせるためであった。ここまで大げさにするのは初めてだがそれは他の奴らはキラが負けると思っているらしく、圧勝で勝たなければ気が済まないから。

彼女に接触しなくなって一週間。この我慢が後で実を結ぶと思うと結構耐えられるものだ。性的欲求を鎮めてくれる女なら腐るほどいる。キラは適当にその女を抱いて待ち続ければいいだけ。でもこんなに難易度が高い女だからこそ落とした瞬間に達成感で満たされて後はすべてどうでもよくなりすぐに捨ててしまうかもしれない。

そこで浮かんだのがシンの恨みの篭められた瞳。彼の言うことは満更嘘じゃないかもしれない。

「アスラン、久しぶり」

押して引いてまた押す。これがキラの手口だった。これでキラの勝利は目に見えている。彼女がキラを好きになれば息子のシンがなんと口だそうと無駄だろう。

勝利を確信していたキラに一瞬視線を向けてからまたこいつか、とため息をついたアスランにキラは拍子抜けしてしまった。もっと憂いを帯びた瞳を向けられると思っていたのに。

「アンタ!最近付きまとわないと思ったら!」
「やあ、今日も朝からウザイね」

キラが好青年のような爽やかな笑顔を向けながら喧嘩を売るような言葉を吐く。キラが挑発しているということにもわからないのか怒りを抑えきれずに顔を真っ赤にしている。紅い瞳が充血していた。

「アンタって人はー!」

叫びながら殴りかかってくるシンを軽やかにかわしながらシンに見せつけるようにアスランの腰に手をまわしてみる。触れてもアスランはちっとも反応しなくて内心キラはむっとした。

「楽しそうですわね、キラ」

後ろからかけられた穏やかな声にキラは全身が凍り付くのを感じる。ゆっくりと後ろを振り向けば案の定柔らかな笑みを浮かべた彼女がそこにいた。ピンクの髪を揺らしながらゆっくりとキラに近づいてくる。

「ラ、ラクス!」

ラクスはアスランの腰にまわされたキラの腕に目をやっている。それに気がついたキラは慌ててアスランから離れた。ラクスはそれを見ても何も言わない。

「いつ帰ってきたの?予定では来週のはずじゃ」
「たった今ですわ」

花のように笑いながら抱きつくラクスをキラはそっと受け止める。抱きとめた瞬間に持っていた鞄が地面に落ちてしまったがそんなこと気にならなかった。登校中の他の生徒達からどよめきの声があがる。ラクスの匂いがふわりと漂い、キラはラクスを抱きしめる力を強めた。

「お帰り」

彼女の頬に手を当ててその表情をしっかりと確認する。力を緩めながらラクスの髪を撫でた。ラクスの緩く長い髪が風に靡いた。抱きしめられているラクスが何かに気がついたのか短く名前を呼んだ。

「あちらの方達は……どなたですの?」

人差し指で指すのではなく手のひらを向けてアスランとシンのことだと言ってみせたラクスにキラはどうしようもなく焦る。今の僕のターゲットだよ、なんて口が裂けても言えるはずがなかった。アスランが自分にその気がなくてよかったと初めて思う。

そうこう考えているうちにラクスはキラの元から離れてアスランのいる方へと歩み寄っていってしまう。思わずキラは声を上げたがラクスは聞こえていないのか無視をしたのかわからないが振り向くことはなかった。

「はじめまして、ラクス・クラインですわ」

手をさしのべるラクスをアスランは横目で見てからそっぽを向いた。ラクスは彼女のその行動が理解できずに首を傾けた。お嬢様でも全く違うタイプだから相容れないことは見えている。

ラクスは世間知らずな箱入り娘で少し抜けたところのあるお嬢様で、アスランは常に結果を求められる厳しい躾の元育った完璧なお嬢様。

キラにとって今の状況がかなりやばいということはわかっていた。だけどどうすることもできない。

キラとラクスは付き合っていてキラはラクスと別れるなんて考えられない。彼女だけは特別で、キラの隣にずっといてくれる人だと思っている。自分をここまで安心させてくれる女性はラクス以外に存在しないだろう。

「ラクス、いいから」
「ですがキラの新しいお友達なのでしょう?」

“お友達”という表現を使うラクス。天然なのか浮気を何とも思っていないのか、キラが最後に戻ってくるのが自分のところだと確信しているからなのかはわからないが優しく微笑んでいる。

「アンタ、こいつの彼女なら首に縄つけておけよ!」

アスランの一歩前に出てシンが叫ぶ。シンはキラの本当の彼女の存在を初めて知った。そして彼のあんな穏やかで優しい表情は初めて見た。いつも自分を見下し、せせら笑う憎い父親はそこにはおらず、ラクスと呼ばれる少女を心から愛していることが見受けられた。そして同時に彼と彼の母親は彼女に負けたのだと思うと彼女に対する憎悪が少なからずシンの心に生じていた。

「縄?キラはただ、たくさんのお友達と仲良くなさっているだけですわ。わたくしにはそれを束縛する理由も権利もありません。彼はわたくしの所有物ではなく、ひとりの人です」

ラクスの言い分は確かに尤もだった。キラが自由に行動するのもラクスは干渉しない。そこまでする権利はお互いにない、そういった見方に寄れば正論であった。しかし恋人が自分とは違う女性と肉体関係を持ったり、あちらこちらで激しい異性交遊をしていたら普通は嫌だと思い、嫉妬するのが普通であろう。自分一人に絞って欲しいという願いは傲慢とは思えない。

「別にアンタ達のことは興味ないけど、俺たちは迷惑してるんだ。そういうの」
「シン、構うな」

アスランは短く吐き捨てるとロータリーから昇降口へと向かっていく。シンは彼女に付いていくために彼らに背を向けた。そんなシンとアスランをラクスは珍しい生き物のように見つめている。

いきなり声を掛けられ、キラは動揺した。おそるおそる彼女に視線を送ればいつもと変わらない柔らかい表情。それが逆に恐ろしい。彼女がキラになにか危害を加えたことは一度もないが、どうしてか彼女の顔色を窺う癖が付いてしまった。

「あの方達はどうしたんですの?」
「あれは……そうだね」

“君がいない間に狙ってた子"などとも言えずにキラは口を噤んだ。ラクスはどんなにキラが浮気をしても何とも思わないのか口を出さなかった。そして彼女と体の関係がなくてもそれは変わらない。許しているというわけでもないが、言葉の通り口に出さなかった。

「お友達喧嘩なさったなら仲直りしなくてはなりませんわ」
「仲直り?」
「キラ、お友達と仲直りしなければわたくしあなたと別れます」

恋人の口から発せられたものとは思えない爆弾発言にキラは妙な声を出してしまった。浮気を許すどころか、落とせなかったら別れるなんて聞いたことがない。天然にも程がある。アスランの態度からして彼女を口説いていただろうことはわからないはずがないのいに。

「何……それ?どうゆう……」

そこでキラはラクスの性格を思い出した。一見天然で純粋そうな少女だが、プライドは今まで出会ったどのような女性よりも高い。女性一人落とせない男と付き合うなどプライドが許さない、ということだろう。ラクスにとって男は自分の器量を測る物差しでもあるのだ。キラは愕然とする。ラクスは一度言い出したら梃子でも動かない芯の強い女性であることは嫌と言うほど知っている。そんなところが彼女のいいところなのだが、今回ばかりは厄介だ。

「一ヶ月。それでも仲直りできない場合、お別れですわ」

真っ白になるキラの脳内。アスランと出会ってからどれくらい時間を費やしただろうか。シンという邪魔者以上にアスラン・ザラ本人が一番厄介で、キラはまともに会話したことすらない。一ヶ月でどう彼女を攻略すればいいのか回転のいいはずの頭はどうにも働いてくれない。

ラクスはキラが唯一利益関係なく付き合っている女性だ。彼女とは干渉し合わないという暗黙の了解で成り立っているラフな関係だが、それでも彼にとって彼女こそが本命だった。別れるなど冗談ではない。彼の脳内にはアスランに落ちたと言うことにしてくれないかと土下座することさえ考えていたが、あのアスラン・ザラならばキラが何をしようと首を縦には振らないだろう。かといってラクスはアスランを落とさない限りきっとキラと別れる。それだけは避けたい。

彼は冷や汗をかきながら拳を強く握ると歩き出した。アスランが消えた方向へと。アスランとシンはそんなことも知らず、ラクスの登場によってキラがアスランを諦めたと言うことを疑いもしなかった。

キラとラクスそしてアスランのある一種の修羅場を見て、大喜びの他の生徒達がアスランを指さしで噂するが、彼女はそれを全て無視した。もちろん彼らはアスランに聞こえないように言っているのだが、地獄に生まれてしまったため全てが筒抜けだった。キラからすれば修羅場であってもアスランにとっては何ということでもなく、ラクスが登場してくれたおかげでこれ以上キラに付き纏われることがなくなって逆に彼女に感謝の言葉を告げたいくらいだ。

そんな彼女を後ろから追ってきたのはカガリ・ヤマト。彼はアスランの性別を超えた友人であり、同時にキラの双子の兄である。アスランがキラと出会ってしまったのは彼のせいとも言えるがアスランは一度も彼を責めたことはない。彼女は彼と友人となったことを後悔していないし、そんな小さなことで彼を責めたところで何の解決にもならない。彼に怒りをぶつけるのはお門違いだろう。

「アスラン!」

いつもより高いカガリの声が響く。周囲は彼の出現に四角関係やシンを含めた五角関係を連想させた。カガリがアスランと仲良くしていることを快く思っていない男子生徒の嫉妬による噂だけではなく、ほとんどの生徒がカガリはアスランに想いを寄せていることに勘付いている。だが、彼がアスランに近づくために友人となったのではなく、友人のアスランに恋愛感情を持ってしまった、という事実だと言うことを理解する人間は少なかった。

「騒がしいぞ、カガリ」

彼女はいつもの口調で、だがどこか明るい雰囲気を漂わせながら言う。隣にいるシンもいつもは挑戦的な視線を和らげ、上機嫌に笑っていた。そのことにカガリは焦りを隠せない。

「これで奴は言い寄ってくることがないですからね」
「後はトリィを完成させればいいだけだからな」
「それが一番大変なんですよ」
「それもそうだな」

どこか穏やかな空気が流れる二人に、周囲がざわめく。アスランがシンに向ける視線は他の誰とも違う、どこか優しさを感じさせるものだった。優しさという言葉は結びつかないほど冷徹なイメージの付いている彼女を知る人間から見ればアスランがシンに、そしてシンがアスランに好意を持っていることを思わせる雰囲気である。彼らが親子であることを知っているのはカガリだけだった。

「そんなこと言ってる場合じゃないんだって!」

カガリはアスランの腕を掴んだ。シンはそれをみてカガリを睨み付けた。母親を幸せにするために時代を超えてきた彼にとっては母親に危害を与える者全てが敵だった。憎むべき父親と血を分けた兄弟ならばそれは尚更で、キラと同じようにカガリにははじめから敵対心を持っている。それをカガリも薄々感じていた。

「キラが本命におまえを落とさなければ別れるって言われたらしい。おまえ本当に襲われるぞ」

見境のなくなったキラは本当に手を着けられない。カガリは一番彼と一緒の時を過ごしているためそれが身に浸みていた。キラの裏の顔は目的のためなら手段を選ばない人間だ。カガリは女関係でキラが見境をなくすところを見たことがないが、先ほどロータリーで見た彼の瞳は全ての鎖を砕いたときの瞳に酷似していた。もしアスランが彼に捕まってしまったらキラは何が何でも彼女を己の物にするだろう。

アスランはカガリのいきなりの言葉に今ひとつ考えと考えが結ばず、混乱していた。シンに視線を向ければ、彼も同じく状況が理解できないらしい。ふたりがその場で顔を合わせていると廊下の前方が騒がしい。生徒を掻き分け、キラがやってきた。大声で何度も名前を叫ばれ、アスランは不快感を露わにした。

「ヤバイ、こっち来るぞ。アスラン、逃げろ」

手を差し伸べるカガリを一瞥したが、アスランはその手を取らなかった。特に何をするわけでもなくただ立っている。何かアクションを起こせば彼が更に執拗に付きまとうのは見えている。何もしないのが一番だ。もし彼女の身に何かあれば、学校側が黙っていない。天下のパトリック・ザラの令嬢が襲われたとなれば大問題である。そして襲えば彼は立派な犯罪者だ。自分と同じ学校に通っている以上そこまで頭は悪くないだろう。

「見つけた、アスラン」

手を掴まれてもまだアスランは本気にしていなかった。軽く振り払おうとしてもびくともしない。手首の骨が細かな音を出し、痛みに眉を寄せる。アスランがどうやっても敵わない男の力だった。

アスランからキラを強制的に離させようとシンがキラに殴りかかる。彼はすぐさまそれをかわし、出会った時の数倍の速さと力で彼を硬い床へと叩きつけた。シンは背中を大きく打ち、蹲る。それを見たアスランがキラを殴った。平手打ちだったが、手加減はなかった。

キラの髪が大きく揺れ、アスランは彼の手から逃れた。床に這い蹲っているシンがゆっくりと起きあがる。周囲は壁と一体化していると思わせるくらい静かである。


11.ファーストキス→