06.トリィ |
まだ頭の中が朧気なシンは反応するまでにやや時間がかかってしまい、まだ眠っていたいという体をどうにか動かす。 リビングに入れば食べ物のいい香りがして、それまで気がつかなかったのにやっと自分が空腹であることに気がついた。目の前に広がるのはいつもシンが口にするものと酷似していて、またひとつ彼女が母親であるということを彼に確認させた。 シンがどこに座ればいいのかわからずにうろうろとしていればアスランが湯気の立つスープをトレーに乗せて運んできて、十人以上が食事をできるテーブルに音も立てずに並べた。広いテーブルに二人分の食事は寂しげだ。シンも見慣れているが改めてこう見て発見するものもある。 シンが脳内であれやこれやと考えているうちにアスランは席についてさっさと食事を始めていた。まるでシンなどその場にいないように。アスランが食事をするわずかな音だけがシンの耳に届く。自分も座って食べていいものだろうか。食べて文句を言われたりしないだろうか。何をすればいいのだろうかと段々と不安と焦りが混じり混乱を呼び寄せた。 アスランは黙々と食事をしていて話しかければ怒鳴られそうな気もする。半分泣きそうになりながらシンは音を立てないように必死に用意された椅子を引いた。 「……いただきます」 そう言ってもアスランが反応することはない。食事のメニューはカニクリームコロッケとたまごスープ、そして色とりどりの野菜が入ったサラダ。シンの食べ慣れた料理の数々だった。それをみて涙が出そうになるのをぐっと堪えて震える手で用意された箸を持ち、クリームコロッケを一口食べた。 その味にシンは言葉を失う。そしてとうとう彼自身も気がつかないうちに涙がはらはらと流れていた。それに気がついた彼は瞳から流れてくる異物を必死に拭う。指で拭うのが追いつかなくなると少し汚れた服の袖で乱暴に拭った。 鼻を啜る音でやっと彼の異変にアスランが気づき、食事にだけ向けていた瞳を彼に移した。 「口に合わなかったか?人に食べてもらったことがないから……」 そう言いながら食器を下げようとするアスランの腕をシンが勢いよく掴んだ。その力の思いもよらぬ強さにアスランは小さな悲鳴をあげる。 シンはアスランの否定的な言葉を打ち消すように必死に首を横に振った。彼の所々長い髪の毛が宙を踊る。 アスランの腕に食い込むシンの爪。徐々に痛みが増す腕は皮が剥けて、もしかしたら血が出ているかもしれなかった。それはなかなかの痛みを伴うがどうしてかそれを振り払ってはいけない気がした。 「……の……じ」 「え?」 アスランはシンの言葉が聞き取れず、数歩近づく。するともう一度彼が口を開いた。 「か……さんの……味、だっ……たから」 その言葉にアスランは眉根を寄せる。この少年の言動ひとつひとつに引っかかるものを感じていた。作り話にしてはあまりにできすぎている。彼がここまで綿密に計画しているとは正直思えない。ボロが出ればアスランは突っ込むし、矛盾が生じれば問いつめるだろう。 「離してくれないか」 アスランは溜息を吐き、小さく言う。それが聞こえているのか、いないのかシンはいまだ彼女の腕を掴んだまま放そうとしない。まるで何かに縋るよう。 「……話聞くから」 それから指一本一本が腕から離れていくのがスローモーションに見えた。解放された腕にじんわりと滲む真っ赤な血を見やった。痛みはほとんど感じないが血を見る前と見た後では痛みの大きさが変わってくるのは視覚的問題であろう。 シンはポケットの中にあるものからひとつを残しすべてをアスランとシンの丁度中心においた。まるで子供のおもちゃのような持ち物ばかりだがアスランは決しておかしく笑ったり嘲ったり、馬鹿にしたりすることはなく、それをひとつひとつ真剣に見ていた。 「……トリィ」 手に取った物を見てアスランは小さな驚きの声をあげた。“声”というより“息遣い”に近いかもしれないが、彼女がそれを見たのが初めてではないことは明らかだった。何より彼女が発した言葉は物体の名称で、シンがそれを見せてからの彼女の目つきが明らかに変わったのを彼は見逃さなかった。 「母さんは時空に関する研究を秘密裏にしていて、このトリィの試作品第一号ができるのは今から約一年半後。時空に関する理論を組み立てたのもアナタが初めて」 他の人間が聞けば笑い飛ばされる内容の話をアスランは黙って聞いていた。シンは無表情のまま何を言う出もないアスランの顔色を窺うのをよして事実を自分なりの言葉で彼女に伝えることを決めた。 「時空を超えることに関しては今まで何度も実験を重ねてきて母さんがチームに加わってから十五年程度、めまぐるしい進歩を遂げていて十分や二十分のタイムスリップは容易にできるようになったけれど一日、一年という大きな時間移動は人間の体内に以上をきたす危険性が高い。今回は今までで一番の時間移動だから俺の身体も何かしらの異変があってもおかしくない。そして俺がある人に話なら母さんが時空移動の理論や研究に没頭し始めたのには俺の父親が関係していると聞いた」 父親――キラ・ヤマト。シンの脳裏に先ほどの最低な男であるキラが過ぎった。彼の言動や態度を思い出すだけで沸々と怒りがこみ上げてくる。 テーブルクロスを指先で掴むとアスランがふたりの間にあったトリィを手に取りまじまじと見始めた。 「俺の父親は俺と母さんを捨てたんだ。母さんを妊娠させておいて自分勝手にっ。そのせいで母さんはすごく苦労して自由に生きられなかった……。だから……俺は過去を変えたい。アナタが幸せになれるように」 父親の話など誰もしてくれなかった。幼い頃は自分だけは特殊で父親という存在がない人間だと思いこんでいた。母がひとりで欲しいと思い勝手にできた特殊な子供だと。しかし違っていた。 母の部屋で隠すようにしまってあった写真に写っていた人物。知らない、見たこともない男。それが誰だかもわからなくて誰に聞いていいのかもわからなくて、それが母親との関係に亀裂を呼んだ。 「そうか……」 アスランが手にしたのは一枚の写真。ザラ邸の庭園をバックにシンとアスランが仲良さそうに寄り添って写っている。手首を返して裏を見れば几帳面な字が並べられていた。彼女はその字に見覚えがある。 彼女の父親の文字にそっくりだった。彼独特の癖のある文字を完璧に書きこなすのは相当な時間を要するだろう。長年見慣れているアスランにだって真似をすることは不可能だ。 またひとつ信じる要素が増えた。彼が未来から来たことを徐々に信じ始めている自分自身が少々恐ろしくもあるが彼には納得させるだけの説明や証拠がある。それに自分の常識などは思えば狭く固い物であるのかもしれない。知識が人よりあるとはいえこの世に知らない物は腐るほどあるのだから。 歴史に名を連ねている偉人はほとんど非常識なことをやってのけたから名を刻んだわけであり、昔は今では考えられない非常識な風習や考えが常識となっていたことも多々あるわけで、自分の概念が真実を遮っているという可能性も低くはない。 しかし彼が未来から来たことが事実にせよ、彼がなにか他に目的がないとも思えない。カガリの家で発せられた言葉に引っかかりを感じていたのもそのひとつの要因といえる。 しかしながら話を聞くと決めたときに自分から巻き込んでくださいと言ったようなものなので今更放り出すことは叶わないだろう。最低でも彼が未来に帰るまでは面倒を見なくてはならなくなったというわけだ。 「スープ……暖めなおしてくる」 アスランはそう言いながら写真を元の場所に戻し、二つの食器を手にキッチンへ戻っていった。 |
07.宣戦布告→ |