04.キシリトール |
「アスランって…誰?」 シンの口から出た名前にキラは聞き覚えがなかった。少なくともキラが抱いた女ではないことは確かで、抱いていない女リストで“アスラン”を探すが、そんな珍しい名前は思い当たらない。それより自分の避妊は完璧のはずだ。彼自身避妊を怠ったことは一度だってないし、セックスの際に一番気に掛けていることだった。 「お前、病院じゃなくどうしても警察に行きたいみたいだな……」 「アスラン!」 アスランという名にキラが反応すると、先ほどぶつかった美少女の名がアスランらしい。気が強そうな彼女は先ほどの彼の微笑みが通用しなかったようだ。声は怒っているのに表情は変わらない彼女を見てキラは違和感を感じた。 「母さん……」 「黙れ、IDカードの窃盗は未成年といえど重罪だ。未承認のカードをどうやって盗んだかは知らないが少なくとも二十年は刑務所行き」 この国は機密漏洩を何よりも恐れている。だからIDカードの犯罪は未成年なら多少は軽くなるが重罪だ。窃盗や強盗でもIDカードが絡む事件の場合罪は重くなる。それほど政府はIDを守秘してきた。 「さっきも言った!これはアンタからもらったんだ」 「『未来で作ったIDだから読み取れない』とでも?」 頭の回転が恐ろしく速いアスランにシンは追いつめられる。母が頭脳明晰なのは知っていたがここまで勘が鋭く且つ知識が豊富だとは思っていなかった。口調は全く違うが今も昔も犯罪を許さないまじめなところは変わっていない。問いただされているのにそれがなんだかシンには嬉しくも感じた。 「そのとおり。信じられないなら自分の目でIDを見てみればいい」 先ほどはスキャンする裏側しか見ていなかったアスランはIDカードの表面を見て己の目を疑った。今から一年半後が誕生日、名前も彼が言ったとおり、シン・ヤマトと、明記されて彼の写真が載せられている。セキュリティやプログラミングは彼女の専門ではないが多少知識はある。 「この国の出生率と、誕生日と発行日を照らし合わせればIDの番号は判明し、それによって約二年後の推定数とほぼ一致はする……。警察のIDスキャンは適応なしなら政府用IDスキャンなら……」 自然に出てくる言葉に彼女自身気づいてはいない。信じているというわけでもないが偽っているにしては綿密すぎる。IDカードの偽造は不可能に近く、未承認のIDを盗み出すことは更に不可能。だが彼女の中で未来からくるということが一番不可能なことだと確率付けられていた。 「あの子、もしかしてスゴイ頭いい?」 キラは小声でカガリに耳打ちをするとカガリは小さく頷いた。学年どころか国内トップレベルの頭脳を持つアスランはいつだって答えられない問題はない。それが英才教育によるものなのか、持って生まれた才能なのかカガリは知らない。ただ彼女の脳のレベルは既に高校級ではないことだけは確か。 「が――俺の素性を調べる義務はない。お前が仮に“ヤマト”であったとしても俺と血が繋がってるっていう証明はない。だから俺には関係ない」 「アスラン、そんな言い方ないだろう!」 庇うようにカガリがアスランに反論する。お人好しの彼はシンが嘘を言っているようには思えない。キラとの子供というのは信じがたいけれどアスランを幸せにするためにきた、と言っていた彼の瞳には一点の曇りもなかった。まっすぐなシンの気持ちに向き合うどころか目も合わせないそんなアスランは非情すぎる。 「……じゃあ俺にどうしろと?この男と親子ごっこ?それともそっちの男と交えて家族ごっこか?」 見下すような視線をキラに向けてすぐにカガリに戻す。女に見下されるような瞳を向けられたことないキラも内心むっとする。だけど口は笑顔を作ったままでいる。馬鹿にするのは好きだが馬鹿にされるのは大嫌いなことを今やっと知った。それを教えてくれた彼女に感謝しよう。 「そう言うことじゃなくてもっと思いやってやれよ、こいつはお前のために」 「俺は頼んでない。…お前の言う思いやりは偽善だ」 カガリの言っているのは彼に手を差し延べてやれということ。だが一度手を差し延べれば一生それを背負わなくてはならないという可能性もゼロではない。それでなくても彼が何者であるかも明確でないというのに。カガリの言う人情だけで動かされる人間だけの世界ではないことにそろそろ彼も気づくべきだ。 「お前も、もうつまらないことはやめるんだな。タクシー代くらいは出してやる」 金で解決させてしまおうとするのは父譲りかもしれない。いつだって煩わしいことは金で解決してきた人間で幼い頃はそれに疑問を抱いたことがある。しかし知恵が付いてくるうちにわかる「仕方のないこと」のひとつだということを。だから今金で解決をしようとするのも仕方のないことだ。 「俺はっ……あなたに見放されたら……行くところなんかない」 シンは真っ赤な瞳にうっすら涙を浮かべながらアスランに縋る。捨てられた小犬のような瞳は出会ったときから変わらない。こんな瞳を彼女はかつて見たことがなかった。そんな瞳を向ける彼を自分はどんな瞳で見ているのだろうか。 「じゃあお前の言う未来に帰るしかないな」 ほとんど信じていないアスランは表情を変えることなく淡々と述べる。腕を組む彼女の仕草は彼女の実年齢より大人びて見せた。 「っ……、それもダメだ」 「へえ、一方通行のタイムマシンとは随分だな」 嫌味を込めて言うアスランの制服の袖をにカガリが制止を求めるように引いた。アスランは一瞬視線をカガリに移すがすぐさまシンに戻した。尋問するような彼女の口調にはやはり感情が見受けられない。美人なのになあ、とキラは彼女を見ながら小さく呟く。このごちゃごちゃしている現状は彼にとって興味のそそるものではない。未来から来た、という少年の発言を信じているわけではないが彼女のように頑なに否定するわけでもない。 「壊れた…。時代を遡って着地するとき…。母さんがやっと作ったのに」 時代を遡れた嬉しさと自分が未来から来たのだと説明するのに必死で忘れていた。目的を達成したらすぐにでも帰るはずだったのにこれでは一生帰れない。シンはそう思うと最後に自分の名を呼んだ母を思い出す。手を伸ばした母は泣きそうな顔で、それを思い出すと急に心細くなる。 「……どうしよう、俺、帰れるところ、ない」 最後に母と交わした言葉は何だったろう、いつも突っぱねた態度しか取れなかった。だけどこんな時に浮かんでくるのは母のことだけで、その母が目の前にいるのにどうしようもなくなった。同じ人物なのに、全く違うひと。 帰れないことにいままで気づかなかったような態度の変化にアスランは黒にも似た濃い藍色の髪を掻き上げる。それから三歩だけ彼に近づいた。シンはアスランの行動の意味がわからずに彼女を見上げるだけで、そんな彼にアスランは苛ついて唇を噛んだ。 「一日だけだ」 すぐには言葉の意味が理解できずに数秒後にゆっくりとわかってくる。彼女の感情のない言葉にもシンは涙してしまいそうだ。頑なだったアスランが少しでも信じてくれた、自分に同情してくれたと。シンが涙を堪えていると彼女はなぜシンが涙ぐんでいるのか理解できないと言った表情を浮かべた。 カガリの家からアスランの家まではエアバイクでも20分かかる高級住宅街の中心にある。シンを連れたまま1時間以上徒歩で帰宅するのも煩わしい。かといって電車を使うと目立ってしまい運が悪ければ警察に捕まってIDがスキャンできないのがばれてしまう。仕方がないからタクシーを呼ぶことにした。タクシーと言っても無人で機械が自動操縦してくれると言った有り難いもの。IDをスキャンして目的地を言い、到着したらもう一度IDをスキャンする。そうすれば月末には指定口座から引き落とされる仕組み。だから誰にもシンの存在を気づかれることなく家に帰れる。 「アスラン、どうする気だ?」 タクシーの到着まで20分掛かるというのでシンがトイレに席を外している間、カガリの全く読めもしない洋学書に目を向けるアスランに控えめに声を掛けるとアスランは中断されたのが気に入らないのか本を勢いよく閉じた。 「どうする気って?」 「お前があれで納得したと思えない。シンの言うこと信じたのか?」 カガリの真面目すぎるところはアスランも嫌いではない。でも立ち回りが本当にへたくそだ。まっすぐすぎるのは彼の短所であり長所だろう。その分常にメリットとデメリットで物事を考え即座に答えを出してしまう自分とはやはり違うタイプの人間だ。 「別に……早く家に帰りたいだけだ。早く家に帰るためにはああするのが最善だと思っただけだが?」 あのままだと何時間でもあの状態を続けられそうだった。彼を一晩置いたところでデメリットがあるとは到底思えない。そこら辺に放り出して補導をされて自分の名前を出された方が困る。自分だけならまだしも父に迷惑が掛かってしまう。一生置くわけではないのだからカガリの言い分は大げさだ。 再び本を開いてそちらに目を向ける彼女の整った横顔を眺めがらキラは首を傾げた。少しだけ水滴の付いたペットボトルはキラの手のひらの温度を下げていく。しかし今の季節はその低温が心地いいからそのままにして、親指で飲み口に触れる。 アスラン、と呼ばれる彼女。美人ではあるがキラが相手にしたことがないくらい強気、というか感情が見受けられない女。普通“この人が将来結ばれる相手”と言われたら気になるのではないのだろうか。キラだって少年の言ったことを鵜呑みにするわけではないが彼女の言動は女とは思えない。黙っていれば美人なのに勿体ないな、と思いながらキラは飲みかけのミネラルウォーターを口に含んだ。 ***** アスランがシンを連れて帰った頃にはすっかり辺りは薄暗くなっていて、アスランと入れ違うようにふたりの母が帰宅した。遅くなってごめんなさいね、と言う母は珍しく帰っているキラと一緒の部屋にいる兄弟に目を丸くする。その母が夕飯を作っている間、リビングではソファの一番端と端に座るキラとカガリの姿。他人のように間隔をあけて座るふたりはなんだかぎこちない。ぎこちないのはカガリだけでキラは普通だが距離を取っているのはお互い様だ。 「あの子ってカガリの彼女?」 長い足を組み直しながらキラが言うとカガリは話しかけられたこととその内容に肩が跳ねてしまう。いい加減切らなくちゃならないな、と思っている髪が視界で暴れ回っていた。 「馬鹿言うな!あいつは友達だ!」 女はすべて雌だと思っているお前と一緒にするな、という皮肉を込めて言った言葉だったがキラは気にした風でもない。ただカガリの言葉をそのまま受け止めるだけだ。ワイシャツの胸元に入ったキシリトールのガムを口に含む。常に持っているわけではないが気分的にすっきりしたいときはガムを買うことにしている。 「ふうん、それにしてもあの子おかしいよね。さすがの僕もびっくり」 いきなり殴りかかってきた少年を思い出しながらキラは笑う。殴りかかってきた彼をいとも簡単にねじ伏せたキラの力。まっすぐすぎるカガリと何でも卒にこなす幼い頃からカガリの上を行き、何でもそつなくこなすキラをカガリは妬んだ。すべてが自分より劣るカガリをキラは見下した。いつしか溝のできた兄弟仲は修復することなく、いまではほとんど口をきかないし、顔を合わせれば小さな喧嘩が始まるくらい相性が悪い。どちらかの虫の居所が悪ければ殴り合いになることだってある。 「あのこ……アスラン?僕のタイプじゃないけどものすごい美人じゃない?ラクスとはれるかもねカガリのじゃないなら僕貰おうかな」 口内に広がるキシリトールの鼻にくる味と固かったガムが彼自身の歯によって解されて柔らかくなる感触にキラは酔いそうになる。楽しげにガムを噛むキラをカガリが不審そうな瞳で見つめた。カガリにはわかるまい、この楽しみが。 「お前でもアスランは無理だと思うぞ」 「根拠は?」 「……あいつお前みたいなの一番嫌いだからな」 キラの脳裏に浮かぶのは先ほど抱きかかえたときに向けられた鋭い視線。あの瞳が意味していたのは嫌悪だったのだとわかると徐々に彼女に興味がわいてくる。今まで何人もの女を口説いてきたがあそこまで不快を顕わにされたのは初めてだった。顔を赤らめるどころか冷ややかな視線を送られ、その後はちらりとも見られない。 「へえ……でもさ、そうゆう子を落とすのが楽しいんじゃない?惚れさせてみせるよ……一週間もあればね」 柔らかくなったガムは唾液に混じりながらキラの舌で転がされた。はじめは固いガムが段々と柔らかくなり、柔らかくなれば噛めば噛むほど味が出る。そして最後は味も枯れて色も失い、紙に包まれて捨てられる。そしてまた新しいガムが構内に放り込まれる。まるで自分の女関係のようだとキラは嗤った。 |
05.Return→ |