Doubtful person |
「母さん!」 紡がれた言葉が耳に届くより先に包まれた腕にさすがの彼女も驚きを隠せない。抱きしめられているという状況はすぐに理解できたがどう対応すべきかわからずに気がついたら少年は強くアスランを抱きしめていた。その力にアスランは叶うはずもなく、藻掻いてもその腕が緩むことはなかった。 「は、離せっ!」 抱きついている少年を剥がそうと胸を押し返すが中々剥がれない。これ以上力を入れれば手を痛める危険性もあるから少年の足を思い切り踏みつければ少年は蹌踉けながら無意識に腕の力を緩め、その隙をついて彼女は少年から逃れた。 「やっと見つけた!もう見つからないかと思った!」 もう一度紡がれて、拘束されそうになった腕を庇いながら少年の右手を叩いた。驚きの表情は一瞬だけで既に落ち着きを取り戻した彼女がそこにいる。傷ついたような少年の紅の瞳にも眉ひとつ動かさないアスランにカガリは少し恐怖さえ覚えたが確かにいきなり妙なことを言い出して抱きついてくれば誰だって警戒するし、それから逃れようとするだろう。 「人違いだ。俺は『母さん』なんて呼ばれる筋合いじゃない」 少年から一歩、一歩離れていくアスランに少年は手を伸ばすけれど当たり前に届かない。自分には母さん、と呼ばれる歳でも呼ばれる義理もない。格好といい、頭でも打ったのだろう。頭を打って記憶や意識が錯乱することはよくある話。記憶障害が起こってるのか精神異常なのかはわからないが関わらない方がいいことは確か。カガリの腕を引きながらもう「行くぞ」と小さく言う。 「知り合いじゃないのか?」 「知るか。警察にでも通報しておけ」 彼女の感情が読み取れない言動と声質にカガリは少年が可哀相になってきた。ただアスランが本当にこの少年のことを知らないと言うことは明確だ。彼女は知り合いなら知り合いだ、と素直に言うタイプの人間だし、この無表情に込められた少しの不機嫌が何よりこの少年との無関係を主張していた。かといって少年が嘘をついているとも思えない。このまっすぐな瞳がアスランを映したときしずかに開かれた瞳には喜びの感情が込められていた。 「母さ……」 「いい加減にしろ」 怒鳴っているわけでもないのにアスランのその威圧と冷ややかな視線に思わず背筋が凍る。今まで生きてきた中で感じたことのないその冷たさに恐怖を覚え、思わず後退りしてしまった。彼はそれでも心の中で呼び続ける「母さん」と。 「おい……アスラン!」 カガリのことなど気にもとめずに彼から背を向けて歩いていくアスラン。ここにいても埒があかないと思ったのだろう。その背中を見てカガリは置いて行かれそうになったことに気がつき急いでエアバイを引いて走る。もちろんエアバイの重量は大きいので走っても早歩きのアスランに追いつけるわけがないが。 少年のことが気がかりで振り向けば案の定突き放されたのがよほどショックだったのだろう、今にも泣きそうな顔をしている。そんな彼に言葉をかけようと言葉を探したが見つからなくてだから見なかったふりをした。よく弟に馬鹿が付くお人好しだ、と言われるが本当にそうだ。自分でもそうだと思う。 遠ざかる背中を眺めながら彼は自問していた。答える人間は勿論いない。そしてその答えを自分は持っていない。だけど決めなくてはならなかった。今、この瞬間に。何のためにここに存在しているのか、それを思い出して彼は拳を握る。 「待てよ、アンタ……アスランだろ」 その声にゆっくりと流し目で彼を睨み付ける彼女。自分が知らない相手に名前を知られていると言うことに驚きはないがこんな薄汚れた少年にまで知られていると思うと知名度もなかなかのものだと嘲笑する。 「だとしたら?」 あえて“YES”と言わないのは彼女の賢さだ。あちらの素性も何もわからないのに自分の素性を明かしてしまうのは不利。相手が怪しければ怪しいほど。それは父の職業柄幼い頃に厳しく施された躾の賜物とも言える。しかしながら自分が誘拐や監禁されて父が犯人の言うことを聞くとは思えないが。 「…あなたに伝えたいことがある。後悔する前に、取り返しが付かないことになる前に…だから」 彼の真剣なまなざしにアスランは口にしようとしていた言葉を呑み込んだ。その次に言おうとした言葉は自分らしくなかったのでもう一度呑み込む。嘘をついているとも思えないが鵜呑みにする必要もない。 「君!」 後ろから発せられた声に一斉に視線を向ける。紺の制服に身を包まれた男性は少年を見るとすぐに見つけた、と言わんばかりに走ってくる。その男性の姿に思わずカガリは声を上げてしまった。 「警察!?」 「やべっ」 少年は舌打ちをすると遠くから走ってくる警察官から逃げようと道を探した。しかし足で向こうに勝てるはずもない。視界に入ったのはエアバイク。相手は徒歩、これなら逃げ切れると思い、彼はカガリが引いていたエアバイを奪い取った。 「おいっ、お前!」 警察に追われているという彼の事情なんて知りもしないカガリとアスランは状況も飲み込めずにだた彼の挙動不審な行動について行けずに見やるだけ。彼はカガリの手を掴んでエンジンを掛け、エアバイに跨った。 「アンタたち何やってるんだ、早く乗れ!」 少年の身勝手な行動に振り回され、その焦りに思わず言われるがままにエアバイに座るカガリとアスラン。3人が座れるようになんて当たり前に作られていないので少年は座席には着かず状態を屈ませ、カガリがその体を掴んで状態を安定させる。スピードをあげていくエアバイに警察官が何かを叫んでいたが風の音で何も聞こえない。 アスランとしては頭が痛いが今更止まって警察に補導なんてされたら人生が終わる。エアバイの3人乗りに上空指定以外でのエアバイの通行。どれも小さなことだけれど父の名に傷が付いてしまったらそれこそ大問題。だから彼に従った。 強風に弱いエアバイを簡単に操る少年は後ろに2人乗っているのを感じさせないほどの腕前で、3人乗っているからか強風に負けることなくその速度を維持し続けるのだった。 ***** ソファに腰掛けたアスランは米噛に手を当てながら彼を睨み付けた。その視線に彼は肩を竦める。カガリは何も言わないがアスランは迷惑を顕わにする。少年がどういう経緯で警察に追われていたかは知らないがアスランには全く関係のないこと。 警察は徒歩だったので追いつかれることもなく、遠かったのでナンバーを見られることもなく無事に安全な場所まで逃げてこれた。安全な場所――と言ってもカガリの家なのだが。今日は母親がパートらしく誰もいないかった。 「なんかこっちに来て歩いていたら職務質問されて…それでIDが読み取れないからって補導されて」 そう言いながらIDを見せる少年。IDカードはこの国で暮らす人間なら誰でも持っているもので身分を証明するために生後半年の赤ん坊の頃に国から渡される。遺伝子情報や戸籍、経歴、罪歴、すべての個人情報が複雑に組み込まれているカード。警察官に提示を求められたらIDを出して身分を証明しなくてはならない。国家機密なのでIDを複製や偽造は到底不可能。読み取れないと言うことは偽造かと思うがアスランが見た限り自分のIDと全く同じ。 「……だから逃げたのか」 問いつめるようなアスランの口調に彼は頷く。頭の回転の速い彼女はきっと自分のことを怪しんでるのだろうと少年にはわかっていた。ここで誤解を解かなくては何も始まらない。 「俺のIDは読み取れるはずないから」 「偽造ってことか?」 カガリが信じられないという目で見るが少年は強く否定するように首を振った。偽造ではないが読み取れるはずがないと言う。ならばそのIDカードは何なのだ、と疑問が浮かぶ。 「無効ID?」 アスランがそう口にすると少年は静かに頷いた。無効IDとは死亡したり国籍を移して国民と認められなくなった人間が使用していたIDカードのことを指す。そのIDは国家が削除するため読み取れずにエラーになる。そういうことか、と理解した。 「お前、不法入国だろ」 「違う!俺は…ずっとこの国の人間だ。無効IDなのは…まだ承認されていないから」 その言葉に引っかかりを感じ、アスランは眉間に皺を寄せる。まだ、ということはこれから承認されるという意味と捉えられる。製造は終わったけれど国が承認していないということか。だが赤ん坊が生まれてからIDができ、それにすべての情報が入力されて手元に届くまで半年。この少年はどう年下に見ても15は越えている。その製造過程で盗み出したIDということかもしれない。IDの盗難は重罪。それを知らずとも助力した自分たちも罰せられる。 誤解が誤解を招いている状況に彼は焦りを隠せない。彼女の頭の良さが祟り、状況が混乱している。このままでは自分は警察に突き出されて国外追放なんてことにもなりかねない。たしかに信じられる内容ではない。無効のIDカードを持っていること自体俺は怪しい人間です、と言っているようなものだ。 「……このカードはアンタからもらったんです、多分」 「……へえ、俺が?いつ?」 さほど驚いた様子でもないアスランに少年は更に怪しまれていることを確信する。まどろっこしいことをしないで説明できたらどんなに楽かしれないが、彼女が彼という人間を納得できなければ少年自身がここに来た意味がなかった。 「…今から約2年後」 過去形でもらった、と言った彼が未来の時間を指したのでアスランは指でテーブルを突いてからその指で前髪を梳く。そして指の間から彼を睨み付けた。 「ふざけるな」 アスランの声に少年は俯き、拳を握る。彼女から見えるのは夕日にあたった漆黒の髪と汚れた服。そして震える体。表情は伺えないが先ほどのように傷ついた表情なのだろう。だが彼女は表情を変えない。 「ふざけてなんかない!俺は17年後から来たんだ!」 思いの外すんなりと出た言葉に彼自身驚いている。アスランは表情を変えないがその一歩後ろに控えめに立っていたカガリは体全体で驚いた声を出している。カガリが驚いても少年に何のメリットもない。アスランが信じ、アスランが納得しなければ。彼女の反応を見るのが恐ろしくて少年は目を伏せた。耳に届くのは彼女が動く音だけ。小さくカガリがアスランの名を呼んだところで彼はやっと顔を上げた。 「ふざけるな、俺はお前のくだらない話を聞くためにここに連れてきたんじゃない。どこで俺の名前を調べたか知らないがそういう嘘に騙されるほど馬鹿じゃない」 「母さん!」 「黙れ」 少年は幼い子供のように彼女に駆け寄り、彼女は子供を煩わしく思っている若い母親のように彼をあしらう。学校指定の鞄を肩に掛けたアスランは威嚇するように睨み付けて彼に背を向けた。 「俺は、アンタの息子だよ!アスラン・ザラの息子のシンだ!……シン・ヤマトだ!」 縋るようにアスランの腕を掴む彼は見下ろす視線が何も信じていないことを感じ、必死に何度も彼の名前を叫ぶ。息子だ、と。だけどアスランが信じるはずもなく、代わりに声をあげたのはカガリだった。 「ヤマト……?」 カガリはそう呟いてからとっさにシンを見つめた。まさかこの少年が自分の未来の息子ではないかと。何でもすぐに信じてしまう性格とよく周りから言われるが今回ばかりは確信がある。ヤマトという名字はそういないし、よく見れば自分に似ていなくもない。目元や鼻筋なんてうちの家系じゃないか。つまり自分はアスランと結婚するということで、思わず胸が高鳴ってしまう。 「……馬鹿馬鹿しい。俺は男なんて下等な生きものの遺伝子を受け継いだ下等な生きものを生み出すなんてことはしない。そこら辺の馬鹿な女と一緒にするな」 その言葉を聞いて内心落胆するカガリの気持ちなど酌むことなく、アスランはシンの腕を振り払う。アスランはプライドが高い。それは彼女の頭脳のレベルでも家柄でもあった。それを誇示するつもりはないが少なくとも結婚や子育ては頭の悪い女がすることだと思っている。 何も映さない瞳にシンは絶望した。話すら聞いてもらえない状況は思ったより深刻で、記憶の中の母親と違いすぎる。彼自身この人が本当に自分の母親なのかわからなくなってきた。しかし、彼女はアスラン・ザラだ。どんなにシンの中の母親と違っていても彼女はシンの母親だ。同じ瞳でも見たことのない冷たさを宿す彼女。シンはその瞳が怖くて直視できない。 「それでいいんだ。アンタは俺なんか生んじゃいけない」 「それ……どういう意味だよ」 息子であろうシンにカガリが問うがシンは聞いていないのか意識的に無視をしているのか答えることはない。振り払われた手でもう一度彼女の腕を掴んだ。彼女に納得してもらわなければならない。未来を変えるために。 「俺は、あなたを、幸せにするために、来たんだ。そのためだったら……なんでもする」 静かにはっきりと一句一句区切りながら紡ぐシンの言葉。だが彼女は耳を貸さなかった。ただの戯れ言だ、と流しているのだろう。広いヤマト家のリビングがとてつもなく広く感じる。夕方だからもう部屋の中は暗くなっていて表情も伺えないけれど、彼女の無表情は変わっていなかった。 「そりゃあ有り難い……が、俺には必要ない。俺は帰るからお前は病院か警察に行け」 言い終わる前にアスランは思い切り腕を振り払う。シンが蹌踉けたのを見てすかさずリビングのドアに手を掛けた。 |
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