プラントではバレンタインという行事はあまり歓迎されない。その理由は、二月十四日に起こった歴史的な事件のためである。血のバレンタインで何万人もの命が奪われた。そのことにより、プラントに住むコーディネイターのほとんどがその日は静かに過ごすこととなっている。それはオーブに亡命したアスラン・ザラ言えることだった。特に彼はその事件で母親を亡くしている。バレンタインには複雑な気持ちを抱いていた。

地球にあるオーブ本国は一週間前からバレンタイン一色だった。街の中心ではカップル限定のイベントや、デパートにはチョコレートの特設売り場、ホテルではカップル向けのプランまであるほど。

オーブはコーディネイターとナチュラルが住む地球の国家である。そのためバレンタインという行事を楽しむ者がほとんどだった。その中にはコーディネイターもいる。そのコーディネイターはプラントに住んでいなかった者が多い。勿論プラントに住んでいたり、知り合いを失ったりしても行事に参加する人もいた。

バレンタインは男女関係なく花やメッセージカード、宝石などをプレゼントする行事だが、オーブは他国とはひと味違っていた。女性がチョコレートを意中、又は恋人に渡すイベントである。そのためチョコレート売り場は女性で溢れかえっていた。

アスランは赤やピンクで色付いた街を素通りし、先を急いだ。まるでその華やかな装いから逃げるようだった。必要なものだけをデパートの地下で買い、さっさとレジを通ってしまう。

母親であるレノアの命日よりも三日前に墓参りは済ませてあった。バレンタインには他に何万人も亡くなったため、墓地が人で溢れかえることが予想される。静かに母に報告を済ませておきたかった。勿論、そこに母親の骨はない。

プラントでは追悼セレモニーが催されているのだろう、市中の大スクリーンに映るセレモニーを想像してアスランは溜息を吐く。ホテルでも友人のイザークの家でもいいからバレンタインはプラントに留まっておくべきだったと今更ながら後悔した。

一緒に住んでいるキラはプラントに足を運んだことは一度きりである。両親もナチュラルでコペルニクスとへリオポリスにしか住んだことのない彼にとって同胞の死は、アスランほどの思い入れはない。イベントを楽しみたいキラと、静かに過ごしていたいアスランでは温度差がありすぎた。キラの気持ちはわかっているつもりでも、母親の死はアスランの人生を大きく変えるもので、人生で一番の衝撃だった。

既に定番となったバレンタインソングが出入り口付近にも流れていた。その前に並んでいるのは男性用のマフラーやセーター。奥のケースにはプチブランドの時計や財布が並んでいた。いつも薄着なキラにセーターの前で足を止める。しかし店員が近づいてきたと同時に我に返るとなるべく早足で駐車場までの道を急いだ。




***



オーブの首都オロファトの郊外にキラとアスランの住むマンションがある。2DKと部屋数は少ないが、二人で住むには十分すぎる広さを持っていた。アスランは靴を脱ぐとすぐさまキッチンへと向かい、両手に抱えた紙袋をテーブルに置いた。溢れんばかりの食材を分けると、大きめの冷蔵庫の前へと持って行った。

アスランがプラントから戻ると、冷蔵庫の中身はほとんど空だった。野菜、肉、卵等ならまだしも、氷や海草類までもが食べ尽くされていたのだ。こうなることを予想して少し多めに食材を買っていたにもかかわらず。そして部屋は空き巣が入ったように散らかっており、掃除するのにも半日かかった。食材のことはともかく部屋を荒らし放題にするのは彼らしくない。それはきっと自分に対する嫌がらせであることはわかっていた。

留守番電話と来客をチェックしながら、冷凍ものから片付けていく。勿論どちらもなかった。男二人が同居している家には勧誘の電話さえ珍しかった。たまに来るのが生命保険の勧誘だが、何の見返りも求めず、ただ平和のためだけにモビルスーツに乗っていた彼らには必要のないものである。

アスランはふと、出窓に視線を移す。そこにはたくさんの写真が飾られている。ザフトを脱走したアスランとへリオポリスが崩壊してしまい、家も共になくなってしまったキラのどちらも手元に残っている写真はほとんどない。

アークエンジェルのクルーの写真や、生まれたばかりのキラとカガリ、そして母親であるヴィア・ヒビキの写真もある。プラントのザラ邸からアイリーン・カナーバの計らいで秘密裏にアスランの元に届けられたものの中にも複数の写真が残っていた。それも飾ってある。

アスランが目を留めたのは彼の父親であるパトリック・ザラが死亡したときにポケットの中に入っていた一枚の写真だけがアスランに残されたものだった。皺だらけになったそれもきちんと写真立てに収められている。付着している血痕は父親のものだった。

幼い彼自身と母が写る写真立てを手に取り、彼はそれを眺めた。遠くプラントに住む父親のためにコペルニクスで撮った写真だった。それを彼が持っていたことに少なからず衝撃を覚えたことを思い出す。

今日はバレンタインだ。彼の母親が死んでしまった。アスランは何年経ってもこの日だけは慣れることが出来ない。恋人が悲しむだろうことは重々承知のはずなのに。

「あれ……帰ってるの?」

背後から掛けられた声に彼は咄嗟に写真立てを元の場所に戻した。急いでその場から離れ、近づいてくる足音の方向へと体を向けた。そして何事もなかったように紙袋へと再び手を伸ばした。

「お帰り。俺も今さっき帰ってきたところだ」
「食材なら僕も一緒に買いに行けば良かった」

口を尖らせるキラにアスランは紙袋を指さした。『手伝ってくれ』の意味である。キラはそれを面倒そうに見たが、命令に従うことにしたらしい。

「こんな日に男二人でか?」

バレンタインに男二人で仲良くショッピング。その帰りにチョコレートなんて買った日には気でも狂いそうだとアスランは思った。そうなるのを避けて一人で行ったとは流石に口に出来ない。

「僕は他人の目なんか気にしない。アスランは恥ずかしいの?」
「そういうわけじゃないが……」

キラの目の色が変わった。アスランは幼い頃から彼が怒る前兆を誰よりも敏感に察することが出来る。アスランは彼を怒らせることに抵抗を覚えたが、否定すれば、それは彼の嫌いな嘘となってしまう。なるべく角が立つ言い方を避けて濁すが、キラの表情が回復することはなかった。

「僕たちただ単に同居してるんじゃないよ。恋人として同棲してるんだよ?」
「わかってる。俺だってそのつもりだ」

彼の言いたいことは理解しているつもりだった。確かにアスランだって普通の恋人のすることをしてあげたいと思うし、したいと思う。しかし外に出るのすら億劫なのに彼とハートマークだらけの路を練り歩く気にはなれない。

「じゃあ、恋人としてのイベントだって……」
「それとこれとは話が別だ」

キラの声は段々と小さくなっていく。アスランは彼に向き直り、不機嫌を隠さない恋人を見つめた。彼との価値観があまりに違っているのだ。

「別じゃないよ。僕だって君とバレンタインを楽しみたいのに……。レノアおばさんが亡くなったっていうのはわかるけど、もう何年も経ってる」

母親のことは禁句だと思っているのか、一瞬躊躇してキラが声を荒げる。彼が大きな足音を立てて詰め寄っても、アスランはその場から動こうとはしなかった。微動だにすることなくそこで彼を見ていた。

「何年経っても、あの事件は……あの事件で何人死んだと思ってる!母上だけじゃない、たくさんのコーディネイターが命を落としたんだ。追悼の意を示すのはいけないことなのか」

コーディネイターとはいえ、やはり彼との考えの違いは明白だった。彼はバレンタインという日を軽く見過ぎている。母親や多くの同胞が核攻撃を受けた日に、恋人と楽しく過ごすことには後ろめたさもある。そしてそんなことが出来るほど脳天気な性格ではなかった。

アスランは、恋人の心ない言葉に絶望を覚えた。心優しいはずのキラの言葉だと信じられない。

「そんなこと言ってないよ」
「俺は、バレンタインが一年の中で一番辛い日なんだ。引き摺っていると言われようと、死ぬまできっと変わらない」

普段は人に気がつかれないように心がけているが、彼は極度の負けず嫌いだった。自分の意志を曲げることは決してない。特に戦争に関することは人一倍敏感に反応する。他人から見れば意固地になっていると感じさせるほどだ。それはいくら恋人のキラでも動かせない。

「お前に気を遣わせたのなら謝る」

アスランは黙り込んだキラになるべく柔らかい声を出すように努め、言い聞かせる。それでもキラの表情は曇ったままだった。少し言い過ぎたのかも知れないと今更ながら後悔した。

アスランも、彼が恋人のイベントを目一杯楽しみたいだけではないと本当はわかっていた。キラは毎年この日が来ると後悔と絶望に嘆き、一人で殻に籠もろうとするアスランの気持ちを少しでも和らげてくれようとしているだけなのだ。しかし、そんなキラの気遣いですら苦しかった。

振り払われることを覚悟して、キラの肩に手を置く。キラの眉が小刻みに動いた。

「違う、僕はそんなことしてほしいんじゃない」

アスランが説明を求めてキラの名を呼ぶ。不機嫌そうだった顔は見る見るうちに憂いに沈んだものとなっていた。歪められた表情は、何かを訴えている。それを見落とさないように努める。

「僕はっ、君が悲しいなら抱きしめてあげたい。君が静かに過ごしたいなら、何も言わずにただ傍にいるだけでいい。泣きたいなら胸でも肩でも貸す。恋人のイベントなんて本当はどうでもいいんだ」

首を振り、キラが声を荒げた。先ほどのように強めに当たり散らすものではない。アスランは、黙って恋人の言い分を最後まで聞くことにした。きっと、これが自分たちにとって大切なことなのだとそう思ったのだ。

「君が一人で抱え込んでいるのを見るのが僕には耐えられない」

キラが手を伸ばし、アスランの頬に触れる。視界の隅で自分の髪が踊った。温かいというよりも熱い程の彼の体温に困惑する。それ以上に、彼の言葉が重たくのしかかった。

「僕だけには背中を向けないで……」

キラは、アスランが思っているよりもずっとバレンタインを重たく受け止めていたのだ。それを今になってやっと知った。毎年その日だけは他人を受け付けようとしないアスランを気遣い、半日一人にさせて、自分は視界に入らないようにする。少しでもアスランが悲しまないようにと笑顔を見せてくれていた。なのに、何も分かっていなかった自分自身にアスランは恥ずかしくなった。

無意識のうちにキラを追い出していたなんて。もし、自分が彼の心から追い出されたと思うとぞっとする。しかし、アスランはそれを一番大切であるはずの彼にしていたのだ。その悲しみをはかり知ることはできない。

アスランは肩に置いていた手を、キラの手に重ねて謝罪の言葉を述べる。そして込み上げてくる涙を堪えて歯を食いしばった。一筋でも流れれば当分止まりそうにはないからだ。

それを察したのか、キラがゆっくりと腕を背中にまわす。大きな動作ではなく、ごく自然に抱きしめられた体。彼の柔らかい髪が頬を撫で、それに頭を預けた。同じように抱き返すと、少し小さな恋人の名前を呼んだ。

「俺の傍にいてくれ」

耳元で囁くと、キラの手がぴくりと反応した。シャツを掴む手が強まる。

素直に気持ちを伝えたことで、キラとの距離が縮まっていくのを肌身で感じた。彼の体温が心地よく、そしてくすぐったくもある。両親にあまり抱きしめて貰った記憶のないアスランには彼とこうして抱き合うのが好きだった。

初めは同性ということで抵抗が有りもしたが、今では日常と化している。しかし、ストレートに気持ちを伝えることは未だに苦手だった。

アスランが恐る恐るキラの顔を覗きこむ。

「プロポーズみたいだよ、それじゃあ」
「茶化すな、馬鹿」

笑いを堪えながらキラが言った。アスランにはそんな彼の態度が照れ隠しのように思えて仕方がない。

自分は軽々と甘い言葉を吐くくせに、アスランが少し愛や恋を口にするとこうして茶化す。どうして欲しいのか言ってくれと懇願したのは他でもなく彼だというのに、いつだって狡い。

しかし、その狡さも含めてキラだ。それが照れを隠すものだと思うと納得がいく。アスランは世の中のことは納得できればいいのだ。頑固だと恋人やその姉にしばしば言われる。


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