眠り続ける場所 |
そこに足を運んだのは、彼女が死んで以来だった。 焼け野原となったベルリンは、今ではすっかり以前の姿を取り戻している。特に被害の大きかった区域の外れに慰霊塔があった。年に一度、追悼セレモニーが行われている。前議長であるラクス・クラインも毎年それに参列していたが、彼は同行を拒み続けていた。 だから、何故自身がこの場所にいるのか、シンは不可解だった。ジブラルタルでの任務は思ったよりも早く片付き、帰国するはずだった。シャトルも準備されていて、乗り込むだけだったというのに、直前で取りやめてしまった。早々に帰国したいと思っていたはずだというのに、気がついたらドイツ行きの飛行機に乗っていた。 ベルリン市街での戦闘はシンの記憶に深く刻まれている。数倍の大きさと圧倒的な火力を持ったデストロイによる大量殺戮が繰り広げられた。たくさんの民間人が犠牲となったのだ。実際に復興した市街を歩いても、当時の惨状が脳裏に浮かんでしまう。 二度目の大戦が終結し、もう八年が経過していた。 呆然と立ち止まっていると、プライベートの通信端末が着信を告げる。ディスプレイに表示された名前を見て、目を細めた。今は誰とも話す気分ではない。鳴り続ける通信端末を無視してシンは歩き続けた。時に立ち止まり、当時の風景を思い出しながら。 市街を一通り見終わると、シンはタクシーを拾い、真の目的地へ向かう。 ドライバーはシンに色々と尋ねてきた。観光の目的は、どこからきたのかなど他愛のないもの。衝動的なものだと自嘲的に笑った。端末の電源を切ると、目的地の傍で降ろしてもらい、そこから歩いていく。そこまでの距離は一キロメートルほどしかないというのに、果てなく続いているように思えてしまった。その中でシンは考えていた。何故今になってそこに向かっているのか。行って何をするのか。どんなに考えても答えは出ない。 森を抜けると、目の前に原が広がった。正面には湖が見える。八年前は雪景色だったそこは、一面緑だった。シンは一歩ずつ、ゆっくりと進んでいく。脹脛ほどの高さの草が足にまとわりついていた。徐々に彼は早足となる。気がついたときには全速力で走っていた。彼女が呼んでいる、そんな気がしてならなかった。 水際に立つと、その場所を眺めた。風が吹く度に水面が小さく踊る。囁いているのかもしれない。シンは目を閉じた。水の香りがした。草の匂いも混じっている。八年前は、においなど何もなかった。寒さと悲しみ、そして怒りが全てだったのだ。 ゆっくりと瞳を開ける。小さな声で名前を呼んだ。 ステラ。その響きがひどく懐かしく感じてしまう。いつ以来だろうか。戦争が終わってからは、戦いの記憶を封じ込めようと必死だった。自分の壊してしまった母国への贖罪と、二度と惨劇が起きないために奔走していたのだ。シンは何度も名前を口にしていくうちに、自分が泣いていることに気がついた。 「……ステラ」 乱暴に涙を拭うが、続々とそれは流れてくる。今までの感情が溢れ出してくるように、それは止まってくれそうにはなかった。 静かな湖が揺れる。雫が落ちて波紋ができていた。水面に映った自分の姿が歪む。涙する青年の姿を、湖は隠してしまった。まるで、彼女が受け止めてくれているような錯覚が怒る。指で拭い、泣かないでと言っている。そんな気がする。 八年前のあの日は、雪が降っていた。 傷ついた彼女を抱いて、世界から切り離されたこの場所を選んだ。誰も彼女を汚さないように、誰も彼女の眠りを妨げないように。 全てを受け止めるように湖に沈んでいく姿が蘇って来た。後悔、憎悪、嗟嘆、そして絶望。やるせない気持ちだけが、真の心に渦巻いていた。こうなることをわかって、この場に足を踏み入れることを拒んできたというのに、まだ自分がわからない。 湖の中に涙が吸い込まれていった。銀世界は彩りを覚えている。だが、湖だけは八年前と少しも変ってはいなかった。 泣いたのは、久しぶりだった。シンは火照った目元を覆い、草原に寝そべる。感触だけを頼りに端末の電源を付けた。その途端、通信が入る。電源を切っていた間にも何回か掛けていた痕跡があった。怒鳴り声を予想しながら端末を操作する。案の定かんかんになって怒ったルナマリアがモニターに映し出される。 「何処に行ってたのよ、全然通じないし!」 第一声からシンの言い訳など耳に入れないと言わんばかりの勢いだった。思わず凄んでしまう。一つ年上のルナマリアに口で勝ったことなど一度たりともなかった。だが、仕事前後に連絡してくるなど珍しい。シンは目元を気にしながら彼女に悟られないように努めた。 「何か用?」 「何か用って!まさか今日がドレス選びってこと、忘れていたんじゃあないでしょうね」 シンは咄嗟にスケジュールを確認する。確かに予定には衣装選びの文字があった。時間を見れば、もう一時間近く遅刻していることとなる。シンがまっすぐに帰国していれば余裕で間に合ったはずだが、残念ながらプラントにすらいない。ドイツからシャトルが出ているが、今回は仕事できているため軍のシャトルで帰らなければならない。ドイツからイタリアに渡りジブラルタル基地に向かい、シャトルでプラント本国へ戻る。どんなに早く到着したとしても日付は変わってしまうだろう。 「悪い。すぐに戻る」 「もう、いいわよ。日にち変えてもらうから!」 呆れた顔を隠さずにルナマリアは言った。女性とはいえ、パイロットの気性の激しさが感じられるシンは素直に謝るしか術はなかった。彼女が先約だったのに、それを忘れて遙々ドイツまで来てしまった自分のせいである。彼女が怒るのも無理がなかった。 モニターには森も、湖も見えているだろう。明らかにカーペンタリアではないというのに、ルナマリアは何も言わなかった。昔なら少しでも気になったら聞いてきたはずなのに、今では干渉してくることはない。それがどこか心地よくも、申し訳なくも思ってしまった。 「急がなくていいから……気をつけてね、シン」 穏やかな表情だった。それは先ほどまでとは全く違う調子である。まるで、何かを悟っているような彼女の態度。シンは、もう一度謝罪をしてから肯いて通信を切った。ルナマリアの声が聞こえなくなった湖周辺は、急に静かになる。シンはもう一度湖を覗きこんだ。 そっと水の中に手を入れる。指先にひんやりとした感触が走る。腕をまくり、もう片方も湖へ差し込んだ。冷たいはずなのに、どこか温かいような気がしてならない。まるで、ステラに包み込まれているような錯覚が起きた。海が好きだと言った、守れなかった自分を好きだと言ってくれた、明日をくれたステラ。どうしてこんなに長くここに来なかったのだろうと後悔する。 「ありがとう」 シンはゆっくりと湖から手を抜くと、腕に付いた水滴を拭わずに起ち上がった。そして湖に背を向ける。風がシンの髪を攫う。草花が揺れた。森との境界線を跨ごうとしたとき、ふと振り返ってみる。先ほどとなにひとつ変らない湖がそこにあった。 「……ステラ、また明日」 そう言うと、シンは森に足を踏み入れる。また、静かな時が刻まれる。湖の中でステラは眠り続ける。誰もこの場所を侵すことはできない。シンはそれを許さないだろう。ここは世界から切り離された聖なる地。ステラが眠る、優しくて温かい世界なのだ。シンも、もう二度とこの場所に踏み入れるつもりはなかった。ただ、この身に死が訪れたとき、この湖の中で永久に眠りたいと思わずにはいられない。 長い道のりはゆっくり歩いて帰るつもりだった。この余韻に浸るように、感触を忘れないように。 ▽ 愛している人と大切な人がイコールではない、シンにとってステラという存在は大きすぎて、傷でありながら支えのような存在。ステラが生きていたとしてもシンは最終的にルナマリアを選んでいたと思います。ステラとは結ばれないけれど、シンの人生に一番影響を与えたひとであるのではといった解釈です。 |