真っ赤に染められたそれはこの世のものとは思なかった。

それは故意的に染められたものではない。人間の、しかも親友である人間の血液だ。同じ人間なのにキラの血はどこか汚れていてイケナイもののような感覚がある。だが現在進行形でキラのパイロットスーツの色さえわからなくなるほどに染まったアスランの血は何かを彷彿させる。

紅は嫌いではない。かといって好きというわけでもない。大切な何かが記憶の合間に紅く見え隠れするのは思い違いだろうか。

『キラ』

誰かが呼ぶ声がする。澄んでいてとても悲しそうな声。だけどキラにはその声の主が誰なのかわからない。しかし根拠はないけれど彼女を知っている気がした。

キラがアスランの見舞い時にそのことを軽く話すとアークエンジェルの軍医から新しい精神安定剤を渡された。前大戦時よりキラの特にメンタル面を気遣ってくれる信頼できる医師だ。キラがコーディネーターの中でも特異にコーディネートされていることも知っている。

これでキラが服用している薬物は五つに増えてしまった。食後や寝る前など飲む時間はまちまちで、今でさえ混乱してるというのにこれ以上増えたら困ってしまう。戦争が終わった後はラクスが面倒を見てくれたが今の彼女はそれどころではないだろう。

だからキラは自室に薬を隠していた。ラクスが宇宙に上がってからは誰も薬を飲むように監視する人間もおらず、自分自身眠れないことも恐怖を感じることもなかった。だからモビルスーツに乗る前にいっぺんに服用する。それがどれだけ危険なことかはわからない。しかしどんなに薬を体に入れてもキラの精神が安定することはない。

「お前、飲んでないだろう」

ベッドに横たわったままのアスランが訝しむ。何をと聞くまでもなかった。

「飲んでるよ」

モビルスーツに乗る前に、とは言わずにキラは微笑む。もちろん心からの笑顔ではない。キラの周りはみんな優しい。マリューもミリアリアもカガリもアスランもラクスも皆がキラを心配してそして腫れ物のように扱った。

「顔色が悪いぞ、昨日は何時に寝た?」
「昨日はフリーダムの整備しててあんまり……」

ベッドに寝たきりのけが人に心配されるとは我ながら情けない。コクピットから助け出し、大量に出血したときは死んでしまうかとも思ったのに、やはりアスランの体は頑丈な作りをしている。アスランと言うよりコーディネーターだが。

「俺のところで時間つぶしてないで自分の部屋で体を休めておけよ」
「アスランなんだか母さんみたい」

キラは口を尖らせて言う。オーブに残っている母――正確には叔母であるカリダは無事だろうか。ザフトの攻撃は行政府はおろか市街地まで及んだ。攻撃開始時にオーブ軍の主導権を握っていたセイランは避難勧告も出さなかったため一般人の犠牲者も多い。母と行動をともにしているマルキオ導師、孤児院の子供たちの安否も気になる。

「人の心配ばっかしてないで自分の心配しなよ。死んでもおかしくなかったんだから」

キラは傷のない場所を選んでぽんぽんと言い聞かせるように軽く叩く。いつもお兄さんぶっているアスランが子供のようにばつが悪そうな顔をするのでなんだか新鮮だ。

「お前だって!シン……いや、インパルスに……。俺はてっきりお前が死んだと思って……」

アスランは慎重に言葉を選んで口籠もる。“シン”とは何度か聞いている名前だった。仲間であるアスランを撃ったインパルスのパイロット。ムウ・ラ・フラガも彼にあったことがあると語っていた。キラも戦場で何度も刃を交えた。

そして彼に敗北している。

「うん……なんでだろうね。みんながびっくりするくらい傷が軽かったんだ」

胸に手を当て、心臓が動いていることを確かめる。あのときキラ自身も死んだと思った。このままフリーダムとともに海の藻屑となるのだと。

「誰かが守ってくれたのかも」
「誰か……ってラクスか?」

無言で首を振った。フリーダムをキラに与えたのはラクス。そのせいで彼女はプラントから追われる身となってしまった。そのことを知ったのはずっと後のことだった。彼女も確かにキラを支えてくれる大切な人間のひとり。彼女に渡されたキラの剣がフリーダムだった。

フリーダムはニュートロンジャマーキャンセラーを使用している唯一のモビルスーツだ。兄弟機であるジャスティスはジェネシスを止めるために核爆発させてしまったので今はフリーダムしか存在しない。元々プラントは核を使用しないという宣言を出していたがオペレーション・スピットブレイクに失敗し、苦戦を強いやられた当時の最高評議会議長であるパトリック・ザラの指示で作られた。

キラもジャスティスの核爆発を目撃しているからわかるがその破壊力は凄まじい。インパルスとの戦いで敗れたときも過ぎったのはフリーダムが破壊されることによって起こる核爆発だった。地上で核爆発が起これば甚大な被害は言うまでもなく、地球の環境にも多大な影響が出るであろう。

負傷したキラは薄れゆく意識の中必死にフリーダムの核爆発を防止するためのボタンに手を伸ばしたが押す前に気を失ってしまった。

――私の本当の想いがあなたを守るから

誰かがそう言った気がし、そっと瞳を開ければすでにアークエンジェルの医務室で片割れであるカガリが涙を流しながら手を握っていた。泣きながら核爆発を自らで防いだことや軍医が驚くほどの軽傷であることが告げられた。

どれもキラには奇跡という一言で片付けるのには疑問が残ることばかり。脳内で何かが蠢くのにそれがなにかは結局わからなかった。

「きっと誰かが僕を守ってくれてたんだ」

キラはそれが誰なのかはわからない。忘却してしまったのか、最初から知らなかったのか彼自身にはそれすらわからなかった。フリーダムで大切な人たちを守りたいと思い、決意して再び銃を取った。誰かを撃ちたくないという想いから震えている手もコクピットに入ってしまえば何かに取り憑かれたように心が静まっていった。

実際にはキラが忘れてしまったわけではない。彼女が忘れさせたのだ。軍医が処方している精神安定剤もそれを助けていた。だが安定剤だけでは大きすぎる彼女の存在は消しきれない。ましてやすべての記憶を消しかねなかったためその程度は軽い。

彼が悲しまないように、これ以上自分を責めないようにと。きっと自分の存在は彼に大きな傷を与えるだろうから。彼の涙と共に自分自身の記憶を連れて行ってしまった。

たとえ忘れ去られた生命であろうと、彼女の想いだけがこれからもキラを守り続けていくのだろう。