On rainy day |
午後の雨の中、アスランは鳥籠の中にある書庫にいた。女官長であるナタルが一室を本専用にしてしまったほどの量の書物がそこに集まっていた。そのジャンルは幅広く、神話から専門書まで様々だ。一日二冊程のハイペースでアスランが読んでしまうため、女官達は一ヶ月に一回は新しい本を持ってくる。ここでは残りの人生をどう暇つぶして過ごすかが重要だった。 本を読み終えると、元にあった場所にそれを戻す。ジャンル分けされたそれを眺めてすぐ隣の古い書物を手に取る。古ければ古いほどアスランの興味を引いた。歴史書や神話がその殆どとなる。 「殿下、ニコル・アマルフィ様がいらっしゃいました。お通ししますか?」 女官の声にアスランは訝しむが、返事をして彼の入出を許可した。すぐさま穏やかな表情を浮かべたニコルが現れた。手には大きなバスケットを持っている。 「ご機嫌如何ですか、殿下」 「はい。今日は?」 「実は書庫でとある本を探していたのですが、見つからなくて司書に話を聞いたところ殿下の部屋にあると聴きましたので貸していただけたらと思いまして」 屈託のない笑顔を向けられ、アスランは戸惑った。オーブでは疑うような視線や、珍しいもののように扱われることが多く、彼のようにまっすぐにぶつかって来る人間はいない。 「ああ女官長がここに本を持ってきてくれたんです。そうしたら多くなってしまって今は一部屋書庫みたいなものです。お好きな本を持って行ってください」 アスランは彼を大きな本棚が立ち並ぶ書庫室へと案内した。幅一メートル、高さ二メートルの間に数カ所の仕切りがある棚が二つ。ジャンルごとに分類され、その中でもアルファベット順に並べられたそれを彼女は見やった。その中には持ち出しを禁じる本はない。ただ暇を潰すためだけのものしか置いていないのだ。 「ありがとうございます。殿下は本がお好きなんですか」 ニコルはアスランの隣に立ち、棚を見上げる。アスランは曖昧に肯いた。一、二歳程しか変わらないのにアスランの方が大分身長が高かった。彼は恐らく男性でも小柄な方なのだろう。アスランは武道を嗜んでいたせいか、女性としては高い方だった。それでもキラやディアッカと並ぶと華奢でしなやかな印象を与えた。ニコルがよほど小柄なことが窺える。 「僕も好きなんですよ。でも物語や神話より、こっちが好きなんです」 ニコルは上から三段目の棚から本を一冊取り出してアスランに見せた。白い表紙に手書きで題名が書かれていた。絵柄や作者名はない。古びた印象のあるそれは遠目に見ても、この世に生み出されてからかなりの年月を経ていることが窺える。アスランは茶色と白の間の見えにくい文字を目を凝らして読んだ。 「詩集?」 「ええ。殿下はご覧に?」 「あまり。そういった感性はなくて」 上から三段目の段はまだ手を付けていなかった。読書をよくするアスランでも、詩には無縁だった。言葉を見て想像して思いに耽る。そういった芸術的感性は残念ながら持ち合わせていない。歌や楽器、絵画など華やかで人の気持ちを穏やかにさせるものは何故か苦手だった。名ばかりだがプラントの巫女だったため舞は意地で覚え、人並みに踊れるが誰かを感動させるものではないし、ただ義務的な動作だった。雨乞いをしている巫女にならなければならないと暗示を掛けてやり遂げる。重要なのは感動的な場をつくることではなく、事実だけなのだ。 「そんなもの必要ありません。この詩集はお薦めですよ。四半世紀も前の人が作ったとは思えない美しい詩ばかりです」 ニコルは軽くページを捲ると、愛おしいものでも見るような目付きで言った。彼がこの詩集に特別な思い入れがあることが窺える。アスランは思わず目を丸くした。 「どうかなさいましたか?」 「いえ、ただ意外だなと思って」 首を傾げてアスランの様子を窺うニコルは幼く、無邪気な表情だ。年齢よりずっと幼く感じてしまう。 「優しくて詩を好むのに、戦いに身を投じてる」 彼の左胸の勲章はその功績を称えるものだ。本を掴む指からいずる魔法は人の傷を癒すものではなく、傷つけるものだ。彼の功績だけを見ればどれほどに勇ましく残忍な人間か想像するが、彼は華奢でどこか女性らしくもある。 アスランが言いづらそうに、だがはっきりと口にするとニコルが驚いた表情を見せた。そしてすぐに笑う。柔らかそうなものだった。 「僕は偽善者なんです。大切な何かを守るために戦うんじゃない。キラ将軍には幼い頃からよくしていただいています。彼の理想を僕は叶えたい。一緒に夢を見続けたい」 「……それが君の正義?」 キラこそが彼の正義、そう聞こえた。アスランが父親こそが正義と信じて国を守り信念を貫いたように。彼は悪い人間ではない。ただ、信じるものが違うというだけで簡単に敵同士となる。こうして話している彼は好印象だというのに。 「本当は僕も戦いは嫌なんです。元は同じ人間だった僕らが別れて戦い合うことはとても悲しい。だから、和平による終結じゃなくても僕はこうして戦争が終わったことに安心しています。それにただ終わっただけじゃない」 ニコルは詩を胸に抱きかかえてアスランに歩み寄った。小さな子供や動物を想像する。将軍から贈られた猫たちも似た表情を向けることがある。 「将軍と殿下が御婚姻され、オーブとプラントは互いに歩み寄ることができるのです。まだプラントでの混乱はありますが、覇王様が生まれれば彼らの気持ちも変わるはずです。僕はその日まで、将軍の助けをしたいと思っています」 正論だとアスランは思った。勝利した側の人間が上から見て願う理想だ。確かにキラとアスランの結婚でオーブもプラントも大きく変化した。オーブの人間とプラントの半分程の人間が覇王を望んでいる。覇王さえいれば大陸が平和に豊かになると皆信じているのだ。 だが、生まれるのは両国の血を継いだ覇王でも、育てられるのはオーブだ。オーブの土地と民衆の中で育ち、愛国心を培う。そしてその根にはオーブの理念が埋め込まれるだろう。そうなれば覇王はただの血液で、実際は大陸を支配するオーブ皇帝となる。それは、覇王の誕生を待ち望んでいるプラント側の人間には絶望を意味している。それでも、覇王が即位するまでの何年かは期待に胸を膨らますことだろう。ある意味幸福なのかもしれない。 「君は若いのにしっかりとした意見を持ってますね。私は父が戦争に行くときに名代に命じられました。水問題、人手不足、他にも色々問題は山積み。でも解決しなければならなかった。自分以外それをしようとするものがいなかったから。大臣達は己の保身のために見て見ぬふり。弟たちはまだ幼い。ただなりゆきでそうなっただけ。意志はそこになかった」 「でも、プラントの国民は皆殿下を慕っておられます」 アスランは椅子に座ると古書に触れる。決めたのは常に他人だった。それに従い、囲いの中で精一杯役を演じる。それがアスランの仕事だった。皆に信頼されて評価されたい。立派な名代だと皆に言って欲しかったのだ。自分の性格がそれを助けた。人が苦しんでいることを見たくない。自分にできることがあるならば少しでも力になりたい。偽善と演技でできていたのだ。しかし、それもアスランの正義だった。 「縋るものがなかったから。近くにあった一番目立つものに縋った。みんな勘違いをしているだけです。条約で嫁いだことで更に。私は、人を救える器など持っていないんです」 「例えそうだとしても、殿下はたくさんの国民に生きる勇気を与えました。それは嘘ではないはずです」 評価されたいと願いながらも、自分の力以上の評価をされると重圧に負けてしまいそうだった。アスランはどの器でもあって、どの器でもない。それを自覚しているからこそ苦しみもがいていたのだ。もし皇帝になっていたら、アスランは彼らの期待を裏切ってしまうこととなる。そして、自分がそうならずに同情される立場にいることにどこか安心してさえいるのだ。そんな自分を心の底から嫌悪する。 「よろしければ僕の持っている詩集、今度お貸ししますよ」 「え……ああ、ありがとう。機会があれば読んでみます」 アスランは曖昧な返事をした。今のところその予定はないが、後の人生は暇つぶしだ。いずれ読む機会もあるだろう。明日か、十年後かはわからないが。 「雨、止みませんね」 窓の外を見て、ニコルはぽつりと呟いた。そこから見えるのは大庭園と雨に打たれる色とりどりの花たち。堀の奥に見えるはずの城下町は霞が掛っていた。いつもは見えるはずの海の姿も見えないほどである。 「嫌いですか?」 「やっぱり日が照っている方が僕は好きです。気分がすっとしますし。殿下は雨は?」 縁に手を置き、アスランの瞳を覗く。彼の瞳は初めて会ったときと変わらず澄んでいた。その瞳に吸い込まれそうになる。鋭く射貫かれそうな瞳を持つキラや、穏やかさで貪欲を隠すディアッカという軍人の狡猾さが見られない。汚れの一切ない純粋さがそこにあった。その瞳に思わず弟と重ねてしまう。 アスランはもう存在しないシンのことを思い出して胸が苦しくなった。ニコルを見る度に彼を思い出してしまう。 「どちらでもないですが、雨が降ると安心します」 「安心……ですか?」 ニコルが目を丸くした。大きな瞳が更に大きくなる。興味津々な彼に彼女は苦笑した。窓から霞掛って見えない海を眺め、その先の母国を見つめる。すると体に染みついた記憶が自ずと蘇ってくる。あの乾いた暑さや潮の混じった軽い砂の匂い。懐かしさが込み上げた。 「プラントは雨が少なく、乾いた土地ですから水不足が問題となっています。雨が降るのは稀で。だから雨が降るとそれだけで皆感謝します」 ニコルが納得した表情を浮かべた。彼は話し上手であり同時に聞き上手である。 娯楽のためにまで水が使用されているオーブにはわからないことだろう。だが、アスランはニコルを責める気も、彼に対して嫌悪を抱く気持ちも不思議と表れなかった。文化の違い、風習の違い、気候の違い。オーブとプラントでは違いすぎる。致し方ないことなのだ。 プラントでは雨期がない。雨が降ることはほとんどなく、運が悪ければ川が地図上から姿を消すこともある。砂漠ばかりの土地に僅かな緑。その中で暮らす人々は雨を欲した。そして神殿は彼らの気を少しでも紛らわせばと雨乞いの儀式をする。先々代の巫女である大叔母は力を持って生まれた皇族で度々雨を降らせたという。 だが、アスランの呼びかけに天は答えてくれなかった。ただ燦々と光りは降り注ぐだけである。それでもたまに雨が降るとお祭り騒ぎとなった。そしてアスランのお陰だと民は言う。重圧だった。それでも水はプラントの命を繋ぎ止めるもので降れば安心する。 アスランが遠くを見ていると、ニコルが勢いよく手を合わせた。その音に驚いて振り返る。弱い癖のある腰までの長い髪が大きく波打った。 「いいことを思いつきました!殿下にお見せしたいものがあります」 いきなり目を輝かせたニコルが手を取った。アスランはそのことに体温が上昇する。幼く見えるとはいえ彼も立派な男性である。そこに意味はなくても無意識に恥ずかしさを感じてしまう。感情の高ぶったニコルが満面の笑みを浮かべた。彼に引っ張られ、やむを得ず起ち上がる形となる。 「こちら側からだと見えないんですが、反対側からだとものすごく綺麗なんですよ」 「なにが……ですか?」 主語のないニコルの説明にアスランは混乱する。前触れもなく触れられてただでさえ戸惑いが隠せないというのに。 「神殿です。雨が上がると神殿の水が太陽に照らされてキラキラと光って。夕日や朝日の時刻と重なると絶景で、僕だけの秘密の場所なんです」 「秘密の場所に私が行っても?」 微笑して首を傾げるとアスランは訊ねた。彼は立派な軍人であるはずなのに秘密の場所と可愛らしいことを言う。それがミスマッチでついつい笑みがこぼれてしまう。軍人よりもずっと詩人の方が似合うと思うのは彼女だけではないはずだ。 アスランはやはり彼に好意を持っていることを再確認する。そこに恋愛感情はないが、彼といるとどうしてか自分を守るために作ったバリケードがなくなってしまっている。その不思議な雰囲気に引き込まれていた。 「勿論です。次に雨が降った時にでも行きましょう。詩集もその時に」 アスランは肯いて彼の手を握り返す。触れられた手が温かかった。そしてニコルが持ってきた本の入っているバスケットの上の詩集を見やる。古ぼけた四半世紀前の詩集は先ほどよりもアスランの興味を引いた。彼の秘密の場所に期待が膨らんでいる。 雨は窓の外でまだ降り続いていた。 |