Infiltration start



水の要塞と称されるオロファト宮殿。城壁は高く厚い。船が民衆の交通手段となるため、幅のある道には大量の水が敷かれている。水は透き通っており、水路の底が肉眼で見ることができた。そこには模様が描かれていることも確認できる。その中には色とりどりの魚が生息していた。

川が枯渇してから水不足に悩まされていたプラントとは大違いで、緑と水に囲まれた豊かな環境に感激せずにはいられない。街そのものが芸術品のように、統一されている。シンは水面に映る自分の顔を見て白い歯を出した。

プラントからオーブまで水路では遅くとも三日で到着するが、陸路では馬で飛ばしても四日から五日、徒歩の場合十日以上掛る。プラントからのスパイであることがわからないよう、潜伏していた人間の手引きにより暫く身を隠し、情報を待ってから城へと向かった。

オーブは入国に関して厳しすぎるところがあるが、能力のあるものとなれば話は別だった。軍事を重んじるオーブは兵士を育てることに力を注いでいる。それはヤマト将軍が軍を統括してからのことで、オーブに忠誠を誓えば民族は問わない。但し、裏切り者やスパイに対することは徹底していた。軍部内に将軍直属の極秘諜報員がおり、常に監視されている。その諜報員の存在を知るものも軍のトップ数人だけだった。

受付と身体検査を済ませると昼食が配られた。初めて食べるオーブのもの。野菜がたっぷりはいったサンドと綺麗な水。それだけでカルチャーショックを受けてしまう。

「うまいだろ?」

隣に座った少年がシンに向かって言った。十五、六の少しからだが小さい彼は綺麗な水を飲み干し、袖でそれを乱暴に拭き取る。それすら勿体ないと水の制限された所で生活していたシンは思ってしまう。奥にいたディアッカが黙っているシンの代わりに返事をした。

「この水とサンドが欲しくて常連の奴もいるんだぜ」

シンは戸惑いを隠せなかった。年が近い人間と、対等で会話をしたことがない彼にとって、返事をすることさえ難しい。どういった口調で返せばいいのか、一瞬不安になる。ディアッカは世間知らずの皇太子の肩を叩いた。

「俺も気にいったな。こういうの。落ちたらオーブサンドの職人になるよ」
「あんたおもしろいな。でもパン屋似合ってるぜ」

少年の言葉にディアッカは苦笑する。オーブを憎む人間がオーブの食べ物を職にするなどなんの皮肉だろう。だが、そんな彼もサンドと水、そして町並みだけは認めてしまいたくなった。確かに、この水とサンドは病みつきになりそうだ。

「格好いいよな、あれ」

少年は、港に停泊している戦艦を指さした。オーブとプラントを行き来する唯一の船。オーブの港は閉鎖的だ。何ものをも拒むそれはミネルバが出航、入港するときのみ開かれる。専用の通行路をわざわざ建設したものである。完成してからまだ時の経っていない最新型の大型艦はそこにあるというだけで貫禄がある。シンとディアッカは敵のものとなったそれを見て複雑な感情を抱いた。

名代のアスランもミネルバの開発、建造に加わり、成果を残した。だが、進水式も終わっていないそれは一度も使用されることなく条約によってオーブに奪われてしまったのだ。十数年掛けて製造した苦労は水の泡。設計図も奪われ、オーブは量産化するとの噂も流れている。鬼に金棒とはまさにこのことだろう。

「ミネルバっていうんだよな、あれ。友好の証しとして女神の輿入れと一緒にもらったんだよな」

オーブに入国してから気がついたことだが、条約が歪曲されて国民に伝わっているようだった。美しいお伽噺のように。すべてをプラントの意志の表れのように見せ、条約のことをなかったように発表している。両国の友好の象徴として輿入れをした第一皇女。それと共に譲渡された大型戦艦。そのおかげなのか、プラントという国はともかくアスランは友好的な人物として伝わっているため、彼女個人は受け入れられていた。彼女自身は好意的に思っているはずもなく、人質として政治の道具に利用されただけだが、それを少しも感じさせないような情報操作の力は凄まじい。

シンは曖昧に肯いた。ここでムキになって素性が明白となれば、計画が台無しになる。皇帝の命は気に食わないが、アスランを奪還するためにはそれが必要であることを彼もわかっていた。ディアッカがシンの隣で満足そうな表情を見せた。

「プラントも大変そうだような色々ごたついてるみたいだし」

満足になった腹部を触り、少年はゴシップのようにさらりと言う。他国の情勢など誰も関心を寄せない。所詮他人事で、何かを奪うわけでも奪われるわけでもないのだ。ゴシップとしても酒の肴にすらならない。広いとは言い難い室内にすし詰め状態となった人間の汗の臭いと、サンドの匂いが充満している。小さな窓が開いているが、あまり効果を成していないようだった。

ボトルの水を僅かに口に含むと、その雫さえも無駄にしないよう心がける。プラントに住む人間は皆、水を大切にするのだ。豪華さを演出する道具として使うなど考えられない。ディアッカとシンの水がまだ八割以上残っているのに対し、少年を含めた周囲の殆どの人間の水は空に近い状態だった。同じ人種でも、環境の違いとは文化の違いに繋がる。それをひしひしと感じずにはいられない。

「国が真っ二つになりそうなんだろ?つい最近も皇太子が殺されたって……」
「なんだって!?」

シンは遮ると少年の肩を掴んだ。ざわついていた室内が静まる。少年も怪訝そうな顔で彼を見やった。

「うちの両親がヤキンに移住して、プラントが荒れたらあそこにも影響が出る。俺たちはヤキンから歩いてここまで来たから、何も知らないんだ。詳しく教えてくれないか」

ディアッカの顔にも口調にも話にも、ボロはなかった。こういった時に冷静な判断を下し、実行できるほどの器量を彼は持っている。情報を得るときは、ちょっとしたこつがあると言うことを彼は知っているのだ。下手に出ると、少年は二三度肯く。

「ああ……あそこはもとはプラント領だからな。そういうことなら早く言ってくれ」
「悪いな、こいつ血の気が多くて」

シンの頭を軽く叩くと、ディアッカは少年に向かい軽く謝罪をする。彼のフォローがなければプラントの人間と発覚してしまう恐れもあっただろうが、国境近くに住む家族想いの青年ときちんと印象つけられたはずだ。それは少年にだけではなく、何が起こったのかと気にする他の人間に対してもだ。シンは、ディアッカの機転の利かせ方に感心してしまう。嘘がうまいというのはある意味能力かもしれない。

「プラントの皇太子が騎士に殺されたらしい。だが、プラントは即座に騎士を処刑し、早々に新しい皇太子を選出した。今では落ち着いたもんだぜ」

一瞬、ディアッカの表情が変化した。怒りではなく悲しみで歪められている。謀られたのだと今更になって気がついた。名前だけの皇太子は皆にとって目の上の瘤である。それをうまくお払い箱にしたのだ。アスラン救出を誓っている彼らはオーブ打倒のためならばなんでもやると知っていてわざとけしかけた。そしてその思惑通り、シンもディアッカも国に裏切られたのだとしても、彼女のためには国に協力するしか術はない。

「そうか、じゃあヤキンは無事そうだ。安心した」

いつもの飄々とした笑顔でディアッカは笑った。いつもと変わりがないはずのその笑顔はどこか影を帯びている。最後のひとくちを放り込むと、もう一度彼は頷いた。