Total negation



アスランが弟の訃報を知ったのは公表の十日後だった。

鳥籠は緩やかな時間が流れている。毎日が同じことの繰り返し。ひとつ変わったことと言えば、アスランがオーブの気候に幾分か慣れてきたことだった。それでもオーブ料理の味付けにはまだ慣れることができなかったが、女官達の食事のために無理に口に入れていた。最近では戻すことも少なくなってきた。

以前は窓から外を眺めて一日を過ごしていたアスランも最近では本を読むことが多くなり、それを聞きつけた女官長の計らいで様々本が置かれている。本棚では足りず、鳥籠の一室を書庫にしていた。ナタルが好んで持ってくるのはオーブの歴史に関するものが多い。プラント側の人間だったアスランは敵国の書簡に興味を持ち、読み耽っていた。

鳥籠は慌ただしい宮殿とは別世界だった。隔離され、ただ世継ぎを生むと言うことだけに専念するため、そして敵国出身の妃に情報を与えないためでもある。皇帝に跡継ぎが生まれたとしても、アスランの役目は終わらない。皇帝の側室が身籠もったことでキラは焦りを隠せずにいるのだ。最近後宮に足を運ぶことが増えてきた。

御子が男ならば皇位継承順が変わってしまう。ただでさえ第二皇子との争いが熾烈となっているのだ、彼の気持ちもわからなくはない。だが、神は彼に希望を与えた。それはまだ一発逆転のチャンスを狙える材料だった。覇王の父となれさえすれば、皇帝になれる確率も増えてくる。だが、アスランには誰が皇位を継ごうが興味がなかった。

普段より多い贈り物を不審に思っていると、その中から一通の手紙を発見した。ただ高価な物を送り続ける皇帝にしては珍しい行為にアスランがその封を開けると、そこには信じられない文が綴られていた。アスランの気持ちを紛らわせたらいいということが一枚の紙に書いてあったのだ。何のことかわからず、アスランはもう一度黙読した。

――“弟君のことは残念だったね”……どういうことだ?

アスランは女官長を呼びつけると、プラントで変わったことはないか問いつめる。ナタルは表情を変えなかった。

「私は存じておりません。耳に入ってこないということは何もないと思われますが?」

彼女は確信した。何も言わないということは、何か異変が起きたのだ。彼女が間を開けずに即答したことも引っ掛かる。少し大きくなった白い猫を抱き上げ、アスランは頷く。思い立ったら行動せずにはいられない性格だ。はぐらかされればされるほど、真実を突き止めたくなる。アスランの脳裏に浮かんだのは嘲笑する男。彼に問いつめるしかない。アスランは女官を三人ほど呼びつけた。



オロファト宮殿の中で一番多忙な人間が仕事をする将軍室。そこに彼はいた。処理しても終わりの見えない書類の山に一つずつ目を通していく。皇帝が政を放棄し、弟たちに任せているため、キラの仕事は多忙を極めていた。その合間を縫って世継ぎ作りのために離宮に足を運んでいる。報告書を読み、彼は鼻で笑った。

「“天地合併政策”がここまでうまくいくとは思わなかったよね」

傍に控えるルナマリアは、彼の机に紅茶を置くと、頷いた。薄い陶器が細かく光っている。キラの持っている紙にはプラントでのレジスタンス活動での被害と死傷者数がグラフで明記されていた。逮捕者は前回より約百人増加している。

「親球派と反球派。内乱になってくれるといいんだけどね」
「それは……時間の問題では?」

宗教的な思想は時に人を変える。信じる力というものは恐ろしい。それをキラは知っている。彼は三年かかっても落とせなかった鉄壁と呼ばれるプラントの要塞を彼が三日で落とし、その後も功績を重ね、将軍となった。軍に籍を置くものは皆、彼に心酔している。それは一種の宗教に近かった。

胸の勲章が増える度、彼は“英雄”として称えられる。だが、それだけでは不十分だった。彼がなりたいのは皇帝のために戦う英雄ではない。英雄の名を持った覇者なのだ。

キラはカップに手を伸ばし、一口啜る。皇弟の口に入るものは全て最高級の品が使われる。しかし、それに慣れた彼にはどうでもいいことだ。味わうこともない。喉が渇いたわけでもなかった。ただ、机から早く仕事以外の物を排除したい。それだけのために飲み干してしまう。お代わりを注ごうとするルナマリアに強めに制止を求め、再び書類に視線を戻した。

再び沈黙する室内。しかし、ルナマリアにとってもキラにとってもそれは不快ではない。彼らに無駄な言葉は必要がなかった。彼女は書類を分別し、キラがこなしていく。流れ作業だった。

扉の向こうの異変に先に気がついたのは将軍だった。普段は不快なほどに静かな宮殿で叫び声がすることは滅多にない。軍人の彼は人並み外れた聴覚でそれを察する。聞こえたのは誰かを止める声だった。

徐々にそれが近づいてくると、ルナマリアが立ち上がった。そしてキラの方を向く。しかしキラは気に留めることもなく仕事を続けた。今日も離宮に足を運べという命令が下っている。早めに仕事を切り上げなければならないのだ。

憂鬱になったキラが処理し終わった書類を置くと、破くように大きな音が室内に響く。こんな扉の開け方をするのはイザークくらいだろう。将軍室にノックもせずに入る無礼者も彼以外に考えられなかった。しかし、彼の予想は裏切られることとなる。

「お聞きしたいことがあります」
「お待ちください!」

イザークとは全く違う声は女のものだった。それを制止する声も同じく。キラは視線を扉に向ける。そこにいたのは彼の妃だった。息を切らせ、風を受けたのか髪が少し乱れていた。肩が大きく開いたドレスの裾を持って睨み付けるようにキラを見つめていた。

ルナマリアが彼女に駆け寄るが、アスランはそれを無視し、キラに詰め寄る。

「……離宮から外出してはいけないとは言われておりません。きちんと女官を連れています」
「そうだね。ただ、僕の仕事の邪魔はしているけど。今日離宮に行くからその時で良いでしょ」

キラはさらりと嫌味を言う。彼女が乗り込んでくるとは、流石の英雄にも予測ができなかった。先日まで鳥籠から一歩も出たことがない妃が宮殿の中にある軍部までたどり着けることに少なからず驚きを感じていた。

「今お答えいただきたいのです。すぐに済みますから……」

アスランは悪びれていない。邪魔をしたことに対してもそれを感じていないようだった。ただの平謝りにキラはあるものを感じ、前髪を払う。

「……ルナマリア、予定より少し早いけどイザークの補佐に行って。君たちは話が終わるまで外で」

指示ずると、ルナマリアが心配そうにキラを見つめていた。しかし渋々命令を了承し、退室していく。それに女官達が続いた。扉が閉まると、キラは新しい書類に視線を向ける。アスランは口を開かなかった。

その代わりに、彼女は机に一通の手紙を置く。真っ白いそれは開封した痕があった。キラはそれに手を伸ばし、裏返す。封には皇帝の紋章がある。キラは眉を顰めた。そして手袋のまま、手紙を取り出す。

「皇帝からの手紙だ、これが?」
「“弟君のことは残念だった”とあります。プラントで何があったのですか?」

キラは溜息を吐いた。彼は意図的にその情報を隠していたのだ。彼女に余計な考えを持たせないために。最近は落ち着いてきた彼女の精神状態をくだらないことで乱したくなかった。彼女は知らなくても構わないのだ。

やはり、皇帝は無能だ。キラの計画を全て崩していく。飾りでしかないのならばそれらしく振る舞っていればいいものなのに。見えない苛立ちが彼を襲う。

キラは、テーブルの上に置いてある新聞を取り出した。九日前のものである。少しよれているが、読むのに支障はない。そのうえ、彼女が知りたいことは一面に載せられていた。

「君の弟が死んだ」

アスランが新聞に視線を向ける前に、キラは言った。新聞に向けるはずだった目がキラに向けられた。見開いた瞳は青みがかかっている緑は透き通っている。

「死んだ……?何故」
「正確には“殺された”だけどね」

キラは写真付きの記事の太文字を指さした。見出しは“プラント皇太子殺害される”と明記されている。その瞬間、アスランは奈落の底に落とされた。同時に激怒する。

「誰が……そんなことを!」

絞り出すような声でアスランが言った。震える手が新聞に皺を作っていく。皇太子の写真が波に消えていく。指は細く長く、左手の薬指にはオーブの紋章の刻まれた指輪がはめられていた。

「皇太子の騎士っていう情報が入ってる。それは新聞じゃなく駐屯部隊からの報告でね」

駐屯部隊の中には宮廷に入り込んでいる密偵もいる。内部でしか知り得ない情報もキラの元へと上がっていた。その信憑性は高い。

「ディアッカが……?そんなことするはずない」

アスランは、キラの言葉に首を振って否定する。

ディアッカはどんな理由があろうとシンを殺すはずがないと確信していた。いくらアスランの命令でシンの騎士となったのだとしても、騎士は主君を殺すことができない。主君が間違っていてもそれを正すのは騎士の仕事ではないのだ。盾となり矛となり、道を開く。

小さな頃から弟のように可愛がっていたことも知っているアスランは、それを信じない。愛する人が愛する人の命を奪うなど、信じられなかった。それでも突きつけられた真実が彼女から考える力を奪う。身の毛が立ち、その場に力なく座り込んだ。

腰までの長い髪が床に付く。キラはそれを見下ろした。“ディアッカ”という言葉に反応し、目を細める。報告書にあった名前もそれに似た名前だった。彼とどのような関係があるのだろうかと考えたが、関係のないことだ。常に凛々しく、抗おうとする彼女の降伏のような姿がキラは快感だった。もっと苦しめばいいとさえ思う。

アスランは崩れた状態でキラを睨み付けた。ここで彼女が彼を睨み付けるのはお門違いだ。しかし、キラは不快を出さないように見下ろす。

「これが全部
――
「彼は、犯人はどうなったのですか?」

キラは目を細めた。弟のことを細かに聞いてくるのは理解できるが、犯人のことを訊ねることなど、普通はあり得ない。こういったとき、ほんの少しの違和を感じたが、妙に気になってしまうのは軍人特有だろう。キラはそういった勘が鋭かった。

「皇族殺しは大抵公開処刑。だけど頑なに公表したがらないのを見ると、すべて密やかに事を済ませたかもね」

プラントの意図はよくわからなかった。皇族殺しをしたのならば、その見せしめとして公開処刑をし、家族も蔑まれることとなるのがプラントのやり方だったが、今回のようなケースは初めてである。犯人が側近ならば尚更見せしめる必要があるはずだが。

アスランは崩れるように床に手を付いたまま、動かない。キラはそれを見下ろした。

「処……刑?」

水分を帯びた瞳が宝石のように光る。いつも何も映していない瞳に悲しみが映っている。キラが彼女が涙ぐむ姿をみるのは初めてだった。それでも彼女は一向に涙を流そうとはしない。下唇を噛みしめ、必死にそれに耐えている。彼女が感情を表に出しているところを彼は見たことがない。己の運命を諦めているといった態度のくせに、救いを求めている。まるで悲劇の女神。そんなに自分を同情したいのならば、その手伝いをしてやろうと彼は鼻で笑った。

「君ってさ、大事な弟を殺めた人間にも慈悲を与えるの?」

キラはアスランの前まで移動すると、彼女を真上から見下ろした。体は華奢で、骨が浮き出ている。未だ彼女はオーブに慣れていなかった。病的に細く、白い体はどこかリアリティを感じさせない。

「どういう……意味ですか」

挑発的な言葉に女神が眉を寄せる。涙は峠を越したようで、濡れてはいるが流れる気配はない。彼は残念だと心の中で口にした。

「だって、覇王の教えってそうでしょう。君は覇王に仕える巫女だったらしいじゃない。弟を殺した人間も許しちゃうんだよね」

覇王は歴史上の人物でありながら、天の民、地の民両方の父として崇められている。教えの上では彼らはひとつとなっている。罪を許し、慈悲を与える心。後悔をするものは真の心を持っている。神殿に仕えるラクスが礼拝でそう口にしていたことを思い出す。無宗教であるキラには理解できなかった。オーブよりも信仰の篤いプラントでは神官の権力も絶大である。そして巫女として名前も与えられたアスランがその教えを背くはずがない。巫女ならば、人を恨むなどあってはならないことなのだ。キラはわざとらしく彼女の悲しみを逆撫でした。

「それに、随分とその騎士にもの入れがあるようだし、餞の花でも贈る?」

黙ったままのアスランはそっと立ち上がり、キラと向かい合う。彼女の歪んだ表情が視界いっぱいに映った。厭らしく笑った直後、室内に弾けたような高音が鳴る。

「最……低」

左頬に熱があった。不思議と痛みはない。いくら軍人とはいえ叩かれて痛くないはずがなかった。アスランは拳を握り、もっと痛めつけてやりたいという怒りを押し殺しているようだった。結構な音が鳴ったが、恐らくセーブしたのだろう。だが、彼女のストッパーは外れてしまった。

「この外道!」

皇女殿下とは思えないほど凄んだ声だった。気の強さを感じさせる節は所々あったが、軍隊を引き連れた勝利の女神という勇ましい印象はなかった。だが、今は雰囲気がまるで違う。隠れていた彼女の姿にキラは笑う。

「最高の褒め言葉だね」

感情をもっとさらけ出せばいい。キラは更に煽る。顎に触れると、アスランはすぐさまそれを振り払った。触るなと抗う視線にどこか快感を覚える。

「殺してやりたい!憎くて憎くて堪らない!」

目を大きく見開き、アスランが叫んだ。今まで包み隠してきた本音が晒される。それは同じ民族にも拘わらず長年争ってきた両国の憎しみの深さを現しているようだ。

「知ってる。初めから知ってた。君が僕を憎んでることくらい。お互い様だけどね」

戦争の縮図のような二人の間に思い空気が漂う。キラは皇族から、残酷な軍人へと表情を変えていく。脱走を試みたときに見た時と同じ表情だった。狡猾で残忍な本性が露となる。

「プラントの女神は国民を裏切らない勝利の象徴。君の愛国心は誰にも勝る。だから期待していたんだけどね」
「何を……」

仮面が剥がれたように、キラは嗤う。悪魔のようだとアスランは心の中で呟いた。

「あの馬鹿を殺してくれるって思ってたのに。僕は君を買いかぶっていたようだ。君の国の使者、殺気凄くて手出すと思ったのに君止めちゃうんだもん。本当、役に立たない悲劇の……」

先ほどより大きな音だった。今度は力の加減もせずに、綺麗な頬に思い切り怒りをぶつける。拳でなかったことが不思議なくらい、怒りで我を忘れていた。こんな風に負の感情を表に出すのは初めてだった。制御していない力に、キラが蹌踉ける。机に手を付くと、床に唾を吐く。

アスランは叩いた右手を左手で押さえつける。痛かった。熱を持ち、痛みを持つ右手。本気で人を殴ったのは生まれて初めてだった。武器を使って人を傷つけるよりずっと、自分に返ってくるものは多い。

切れた唇を嘗め、キラがアスランを見下ろす。彼女は逃げなかった。世界で一番憎い男に気だけでも負けてはならないと睨み付ける。その瞬間は、何がどうなろうと、どうでもよくなっていた。

「俺は女神なんかじゃない!」

悲鳴のような叫び声。そう称えられる度に苦しくなった。男ならば立派な皇帝になれたと何度も言われた名前だけの巫女。性別の壁に苦しめられ、皇位を継げず、結局は政の道具としてこれからの人生を生きなくてはならない。残された役目はこの悪魔のような皇弟の子を生むことのみ。そこにかつて国を守った女神ならぬ英雄としての栄光はなく、ただの女と化していた。

そこでやっと、アスランは国民に持て囃されていたことに違和を感じた。彼らは縋り付く対象が欲しかっただけなのだ。女の名代として祭りあげられただけ。手っ取り早く、傍にあった、それがアスランだったのだ。本当は以前からわかっていたはずだった。

国民の期待に応えなければと懸命になればなるほど、それは否定できず、演じていたのだ。少しでも楽になればと大臣達と対立してまで援助し、誰からも好かれようと必死だった。それは自分が名代として評価されていると実感できるただの自己満足だったのかもしれない。

意外なときに、それがわかり、アスランは愕然とした。徐々に大きくなる笑い声が耳に纏わり付く。

「へえ、じゃあなんだっていうの?」

プラントの女神ではないアスランに存在価値はないとでも言うように、キラが見下した。

「……わからない」

女神ではない自分が何ものなのか、何故命がけで国を守ろうとしたのか、何故キラを殴ったのか、何故ここにいるのか、アスランにはなにひとつわからなかった。

自分の体中を占めていたはずの怒りもどこかへ消え失せてしまい、体の中から全てが抜けるような感覚が彼女を襲う。アスランは自分の愚かさを痛感し、その場に座り込んだ。