Bare ambition |
彼女たちが離宮にたどり着くと、ナタルと十数人の女官達が入り口で集まっていた。アスランの存在に気がつくと騒めき、ナタルが一人、彼女たちの元へ歩み寄ってくる。勇ましそれは行進のようだったが、アスランはそれから視線を逸らすことなく、まっすぐに見つめていた。 「お探ししておりました。お怪我はありませんか?」 ナタルはアスランを見回した。皇弟妃ともなれば、かすり傷一つ許されない。世継ぎを生む体は国のどんな宝よりも大切にと女官達は言い聞かされている。少しでも傷が付いていれば女官達から罰せられる者が出る。それが為来りだった。 彼女の質問にアスランははっきりと答え、頷いた。付いていない埃を軽く払い、無事であることをアピールする。細く、青白い彼女ではあるが、傷は何処にもない。 「それで、今までどちらに?」 離宮内へは、ナタルとルナマリア、アスランの三人が歩く。道のわからないアスランがナタルに続き、その後ろをルナマリアが歩いていた。鳥籠に戻される。それが彼女には苦痛で仕方ない。話の核を突き、ナタルがドレスの乱れを直した。すぐさま皺が伸ばされていく。 「えっと……花の」 「女官長殿、庭園にて迷い込んでいらっしゃったそうです」 名称がわからずに口籠もると、ルナマリアが後ろから口添えをする。まるで二人で口裏を合わせているような光景にナタルが眉を顰めた。 「ホーク殿はそれを?」 「いえ、眩暈を起こしておられたところに私の妹が通りかかり、庭園内にて介抱いたしました」 事実を述べるルナマリア。アスランは同意を求められ、頷く。まさかルナマリアの妹であるとは気がつかなかったが、メイリンに助けられ他愛のない会話をした。レモネードを飲み、それが好きになったのも事実である。普段為来りに縛られ、味方のいないアスランが初めて心から安らぐことができた。弟たちには会えなかったが、アスランはそれで十分だった。 「妃殿下は何故離宮を離れられたのですか?」 「猫が走っていくのが窓から見えたので、それを追いかけようと……」 再び質問をするナタルにアスランはまるで詮議にかけられている罪人の気分になる。確かに猫は見えた。しかしそれは彷徨っている途中のことである。勿論、アスランに追いかける意志はなかった。他に言い訳が見つからない。 真面目で律儀な彼女は嘘を吐くことに抵抗があった。しかし正直に弟と思い人に逢うために抜け出したなどと言えるはずがない。そんなことを口にすれば計画が全て崩れてしまう。アスランの役目はプラントが再び立ち上がる力を蓄えるまで国を潰さないようにすること。誰に言われたものではないが、そう思っている。 「左様ですか。しかし、今度からは離宮を出るときは必ず私に声を掛け、最低三人の女官をお連れください。決してひとりでは出歩きませぬよう」 ナタルの言葉は“次はない"という意味に捉えられる。しかし、彼女の本意まではわからなかった。行きは無我夢中で走った廊下はすぐに終わりを告げた。扉の前で立ち止まると、ナタルはゆっくりと拳を掲げ、胸元から細かくノックをする。 「キラ殿下」 アスランはその言葉に背筋が凍るのを感じた。この中に、彼がいる。納得する前にナタルは続ける。 「殿下、いらっしゃいますか。妃殿下をお連れいたしました」 扉を開けると、ナタルは中に入るように促した。アスランは一瞬躊躇してからゆっくりと足を進める。彼女が鳥籠に入ると、白い軍服に身を纏ったキラが普段彼女が座る椅子に腰を掛けて同じように外を眺めている。 彼は何を見ているのだろうか、瞳は何を映しているのだろうかとアスランは疑問に思った。そこからは城下町も神殿も、庭園も海も山もたくさんの水も、広大な空も見える。アスランは海を見ている。だが本当に海を見ているわけではない。海の向こうにある故郷を、大切な人たちを眺めている。彼が同じ場所で同じ景色を見ていようと、やはり違う。 ナタルが腰をかがめて彼に耳打ちをする。手を添えているため、アスランからは口の動きも見えなかった。ルナマリアはアスランの傍にいるだけで、彼には近寄らなかった。妾でも側室でもないただの副官である彼女は、彼が仕事をしていないときはそれを許される身分ではない。 ナタルがキラとアスランに一例をすると。ルナマリアと共に退出していく。アスランはそれを不安に感じた。彼と二人気になりたくない。そう思った時には既に扉は閉まっていた。 二人が退出しても、暫くキラは口を開かなかった。元々アスランがナタルに教えられたとおりに挨拶をし、それをキラが短く返事をしたという以外に彼らは一切会話がなかった。床を共にしてもキラは何も声を掛けず、アスランもただ耐えるだけ。宴の席も、食事でも同じことだった。 道具としてしか見ていないキラと、仇として見ているアスラン。お互い嫌悪している関係に会話は不必要だった。 まともな会話をしたことのない人間が当然の如く部屋にいるのはどこか居心地が悪い。アスランは入室した時の位置を動かずに床を見つめていた。豪華なカーペットの模様を意味もなく覚える。 「……猫、追っかけてたの?」 突如話しかけられたアスランは驚きのあまり肩が跳ねてしまう。弾けるように彼を見ても、彼の視線は外に向けられたままだった。足を組み直し、窓枠に肘を付く。椅子が小さな音を立てて軋んだ。 アスランが肯定すると、キラは興味がなさそうな反応をする。アスランは全てが見透かされているような気分に陥った。 「僕は別にいいけどさ、君がどこへ逃げようと」 言いながらキラが立ち上がる。椅子が後方に転んだ。アスランの言葉を全く信じていない彼にアスランが声にならない声をあげた。 「死のうが構わない。ただし、君には役目がある」 キラは中指で前髪を払うと、顎を向ける。見下す瞳がアスランを刺した。 「僕の世継ぎを生んでもらわなくちゃならない。僕が皇帝になるためにね」 権力と地位を渇望する瞳。反発しながらもその地位だけを追い求める男の口調はアスランの恐怖心を煽る。欲に眩む醜い心が彼を覆い尽くしていた。 「君個人はどうでもいい。僕が欲しいのは地の王の血だ。君に流れているね」 アスランは自らの手に視線を移す。皇帝になるために地の王の正当な子孫であるアスランの血を欲している。つまり彼は世継ぎを生むだけの体としてアスランを利用しているだけなのだ。アスランは心の底から彼を軽蔑する。 「……覇王」 「ご名答。この大陸を総べる資格があるのは覇王のみ。君が覇王を生めば僕の権力は絶対だ」 覇王は息子達には総べる器がないと残し、領地を半分ずつ与えた。散ってしまった血を再び結合させれば、どちらの国からも支持されるはずである。覇者は飾りにし、父親である彼が大陸を牛耳る。確かに彼は武人としても軍師としても優秀なようだ。 覇王を使えば簡単に皇帝という地位も得て、簡単にプラントを支配下に置くことができる。そして子は父に逆らえない。それを利用し、全てを支配する。アスランに彼を止める力はない。逆らえば恐らく命はないだろう。世継ぎさえ生まれれば用済みだ。 彼のあまりに入り組まれた計画にアスランは身の毛が立つ。既に事は始まっていた。 「何故……それを私に」 アスランが吐息のようにそれを発すと、キラが厭らしく笑った。 「君が逃げ出したから言ったまで。わからせるために一応言っておこうか。君が逃げたらどんなことが起こるか」 彼の笑みにアスランは嫌な予感がし、彼を止めようとした。しかし、それよりも早く彼の口が動く。 「例えば君つきの女官。これは死罪だね。逃亡を許したんだから当たり前の措置でしょう。あと女官全員も何らかの罰を与えられるだろうね。勿論ナタル先生も死罪、もしくは宮殿から追放。そして君が見つかれば公開処刑」 淡々と述べながら、キラは一歩ずつアスランに近づいてくる。威圧感に息をすることも難しくなった。一メートルほど近づいたところでアスランはやっと後退りをした。キラはまた、アスランに詰め寄る。そして最後には壁に追いやられてしまった。 口端を吊り上げて笑うキラは楽しそうだった。人が殺されることを想像して嬉しくてたまらないのだろう。そうやって彼女の大切な人たちをその手で殺めてきたのだ。野蛮すぎる。アスランは益々彼に嫌悪感を抱いた。こんな男が大陸を支配すればプラントはどうなってしまうのだろうか。 「それに」 キラは壁に手を付き、アスランに笑いかける。先ほどメイリンが向けた無垢なものとはかけ離れた厭らしい笑い。嘲ら笑いだ。 「プラント帝国は条約違反とし、オーブはその報復としてプラントに制裁を加える」 理不尽な発言にアスランが大きく反応した。彼女は初めからわかっていた。自分が粗相をすれば国が滅びるはずだと。言動と行動には呉々も注意せよと皇帝にも言いつかっていた。少しでも不穏な行動をすれば、困るのはアスランではない。故国の人々だ。わかっていたはずだった。 「僕は徹底的にやる主義だからね。皇帝をはじめ皇族は皆捕らえて公開処刑。反逆防止のために臣下も処刑。要を失った国は滅び、民衆は飢えに苦しむ」 左手で両手を拘束されると、それを頭の上で組まされる。男で鍛錬を欠かさない彼と食事すらまともに取っていないアスランとでは力の差は歴然だった。抵抗という言葉を知らず、アスランは彼にされるがままとなる。 彼の言葉通りに想像し、アスランは首を横に振る。父が、弟が、恋人が、支えてくれていた民衆が自分の行動で苦しんでいく。それは自分が痛めつけられるよりもずっと苦痛だった。 ――なんて卑劣なんだ!この男は 「僕にしてみれば好都合だ。邪魔なプラントを滅ぼせる。君に感謝したいくらいだよ」 顎に手を添えると、キラは鼻で笑った。耳に掛る息と凍り付いた紫の瞳に恐怖を覚え、アスランは足の爪先に力を込めて必死にそれに耐えた。痛いほどに締め付けられる腕は自由が効かない。奴隷にするような掴み方だった。 彼の侮辱に耐えられるほど、アスランは悪ではない。彼女は自分の正義を持っている。そして彼はその許容内にいない。そんな彼に虐げられることは彼女の誇りが許さなかった。 「私は、私は逃げてなど――」 「国がピンチの時は前線に出て、滅びの限りを尽くすと脅せば敵国に輿入れし、女官達の食事のために嘔吐してまで口に合わないものを食べる。悲劇のヒロイン……いや、悲劇の女神か」 アスランの言葉を遮り、キラは言った。精神的な部分を抉るようにわざとらしくゆっくり紡ぐ。効果覿面だった。 自らの不謹慎さにアスランは自身を責め続ける。一瞬でも国よりも自分の欲求を満たそうとしてしまった。そのせいで女官達は総出で自分を探し、ルナマリアもそれを手伝った。そして彼女の妹を利用しようと企んだ。それでもシンとディアッカに会いたかったから。 「そんな君が人を犠牲にして自分だけ助かろうとしている。これが現実だ。君の行動は全て偽善だ。ねえ、プラントの女神様」 そう言われ、アスランは背筋が凍り付くような感触を覚えた。 キラは卑劣で狡猾な人間だ。しかしアスラン自身も彼の言うように偽善ばかりなのかもしれない。そんなことはないと必死に否定はするが、心のどこかでそう思っている自分がいるから、抜け出そうとしたのだと彼ではない誰かが言う。 自身の愚かさは何人もの命を奪い、守りたかったはずのものを傷つけていく。それに気がついたアスランには何も見えなかった。 極限まで開かれた非情な瞳がアスランを浸食していく。アスランは拒む術を知らない。自分可愛さに藻掻けば他人がもっと苦痛を味わう。ならばそれに耐えるしかないのだろう。もう、アスランは彼の道具なのだ。 耳元で絶笑する仇。悪魔。彼は悪魔だ。アスランは心の中で何度もそう叫ぶ。その悪魔と契約してしまったアスランもまた、悪魔なのかもしれない。 顎を掴んでいたキラは激しく口付けをした。息も出来ないそれにアスランの喉が鳴る。キスをしながら彼は彼女の体を持ち上げると、ベッドに叩きつけるようにして押し倒す。ベッドのカーテンも引かず、キラはアスランを貪る。 彼の目的は快楽ではない。自らの権力の誇示。アスランはその道具でしかない。 初めから愛されたいなどと思っていたわけではない。彼女も初めから彼を憎んでいた。悲しいはずはない。 体中を這う手が、密着する肌が、耳に掛る吐息がアスランの嫌悪感を煽る。アスランは下唇を噛み、耐え続ける。平静な顔をしながら始終笑いを浮かべる男。動きは止まず、アスランは彼にされるがままとなる。 彼女に視界に映る骨と皮だけの腕。それが今のアスランだった。まるで人形のよう。どこまでも従順な道具であることしかアスランは求められていないのだ。本心を知ったアスランはこれからの人生が地獄であることを察し、天を仰ぐ。だが、そこにあるのはただの天井だった。 |