オーブ帝国のオロファト宮殿の西側には古いホールがあった。そこで祝い事を盛大に行っている。皇帝の結婚式を挙げた場所もそのホールだった。そして年に数回ダンスパーティーが催される場所でもある。貴族の社交デビューの場であり、自らの権力を見せつける場でもある。

キラとアスランは広いオロファト宮殿の離宮から西のホールまでの長い距離を歩いた。石畳で続く長い道を女官や兵士達が囲い、新しく婚姻をした彼らを祝福する。それを思いついたのは皇帝だった。普段ならば船や馬車で移動をするところをわざわざ徒歩でなど、含むところがあるに違いない。それがただの嫌がらせか。アスランにはそのどちらでも構わなかった。

彼らが到着すると、ホールは拍手があがった。アスランは婚姻の儀の時と同じく、仇であるキラのエスコートで続いた。レッドカーペットの終わりまで歩くと用意された席に着く。共に歩いているときも、座ってからも彼らに会話はひとつもなかった。

煌びやかなドレスを身に纏うアスランは布地に触れた。プラント織りでもオーブ産のものでもない。薄い布が何重にも重ねられている。手触りはあまりよくなかった。光を反射するように細かく散りばめられた宝石が眩しい。彼女にとって意味のないものだった。

それを言ってしまえば今の彼女の周囲にある全てが意味のないものなのだ。

光を放つシャンデリア、音に酔いしれながら演奏を続けるヴァイオリニスト、最高級のステーキ、宝石のように輝きを保つグラスの中で踊る最上級のワイン、生きるためではなく美しさを引き立てるために不断に使われる水、硝子細工のような光に輝く欲に満ちた愚かな人間の瞳。

斜め上から見る景色は全てが人工的で美しく、滑稽だ。そして全てが儚い。誰かが力を込めれば簡単に壊れてしまいそうだ。

何人もの臣下の紹介を聞き、曖昧に頷く。アスランと話すよりもずっと、キラは饒舌だった。しかし、彼からアスランに話を振られることはない。ただいるだけでいいと女官長のナタルからも言いつかっていた。座っているだけでいい。それが勤めだ。

アスランは各国の要人やオーブの大臣達に口元だけの笑顔を浮かべていった。微笑みかける度に彼女は自身の心が冷めていくのを感じた。隣ではうんざりしているキラが溜息を吐くのが聞こえる。それはこのくだらない宴のことか、それとも隣に座るアスランのことか、考えたがどちらでも同じことだという結論に達する。

いつもの白い軍服ではなく、皇族らしい服に身を纏っていた。青は見慣れないが、彼の色だった。オーブは男の皇子が誕生したとき、皇位継承順に色を付ける。第一皇子には紫を、第二皇子には赤を、第三皇子には青を第四皇子には緑を第五皇子には黄色を。色は第十三皇子までつけることが可能だった。母親の身分から継承順が変動することもあるが、基本的に色が変わることはない。

キラは第三皇子であるから儀式の時には軍服ではなく決められた青色を纏わねばならない。皇子は基本的には自分の威厳のために自ら好んで自分の色を身につけるようにするが、彼は違った。皇位継承権など意味がないと色に拘らず、白い軍服と手袋を常に身に纏っているのだ。

皇帝のみが許される黒ではなく、その逆の白は沈黙の挑発。本心では従う気はないという意思表示も兼ねている。

「顔に出てるぞ。間の抜けた顔してないでシャキッとしろ」

見慣れた顔にキラは硬い椅子に肘を突いた。横目で睨み付けると幼馴染み達が並び連なって現れる。憎まれ口を叩くイザークはいつも垂らしている髪を一つに結って貴族の正装をしていた。彼は元々皇族と上流貴族の間の身分のため軍属というよりも貴族の装いの方が妥当である。

「僕は生まれつきこういう間抜けな顔なの。公の場での言葉遣いは気をつけろと言ったはずだよ」

キラはイザークを殺気の籠もった視線で睨み付けた普段は昔なじみのため暴言も許してはいるが、公の場ではそうもいかない。いくら上流貴族とはいえキラは皇族で彼は臣下なのだ。弁えてもらわねば困る。

「これは失礼いたしました。キラ殿下、皇弟妃、ご機嫌麗しゅう」

わざとらしく強調しながらイザークは言った。彼にはキラの殺気も効果がない。キラも初めから効き目を望んではいなかったが知りすぎているということも少々面倒かもしれない。

「で?ニコルはともかく君は冷やかしに来たわけ?イザーク」

明らかに茶化しているイザークの態度にキラは不快感を露わにした。先ほどの笑顔とは対照的だった。不機嫌そうなキラの方がキラらしいといえるが、今は笑顔を浮かべなければならないのだ。

「絶世の美女と謳われる御正室をお目に掛ろうと思いましてね」
「イザーク、それくらいにしてください」

アスランをイザークが見下し、挑発する。それをニコルが腕を引いて注意する。彼は軍属専用の正装を着ていた。

「アスラン様、失礼いたしました。彼は
――
「オーブ軍攻撃隊隊長イザーク・ジュールにございます。以後お見知りおきを」

ニコルの言葉を遮り、イザークが床に膝をつける。深く下を向き、胸元に手を当てる動作にアスランは見覚えがあった。プラントでの騎士の契約。騎士は忠誠を誓った相手にしかしないポーズだった。しかし、オーブではそういった意味は込められていないようだった。ディアッカがふざけてした“忠誠の証"のポーズがアスランは好きではなかった。彼と自身を分け隔てるもののように感じてならないのだ。

目の前の彼らの忠誠は、アスランではなく隣にいる冷酷非道な将軍に向けてのものである。部下からは心酔され、皇帝には頼りにされ、大臣からは期待され、民衆から英雄視される。それが将軍の彼だ。

アスランは今まで単に彼の隣に座っていたわけではない。彼に敵意を向けるもの、好意を抱くものの区別は最低でもしてきた。ほとんどの人間が後者なのだ。第二皇子の彼の兄と数人の大臣以外は。そのことから彼の能力が高いことが窺える。

「将軍閣下、お久しぶりです。プラント遠征から帰っておられたことは伺っておりましたがご挨拶が遅れて申し訳ありません」

ニコルもイザークに続いておなじポーズを取った。それから視線を上げる。普通ならば目上の者が顔を上げていいと言うまで顔を上げてはならないものだが、彼らの間には縛り付けるような主従関係は存在せず、あるものは強い信頼のため言葉を交わさずとも心がわかりあっていた。

「ニコルもミネルバの件ご苦労だったね」
「勿体ないお言葉にございます」

褒められたニコルは頬を染めて微笑む。大人っぽく振る舞おうとする彼も笑顔は年相応だった。まだ幼さを残す少年は彼に何処までも心酔しているようでアスランは胸が苦しくなった。プラントを滅ぼした男に酔い、彼もアスランの大切なひと達を殺めたのだ。それでもアスランはニコルだけは恨む気にはなれなそうだった。

心酔しているのは彼だけではない。軍に身に置くほとんどのものが彼のカリスマ性に惹かれているはずだった。アスランも薄々ではあるが、彼が人を惹き付ける力を持っていることに気がついていた。第三者的ではあるが、持っていないアスランだからこそ、それがわかる。その強大な力が恐ろしくも感じていた。

しかし、アスランは彼に惹かれることはない。人間として彼を受け入れられないのだ。どんなにカリスマ性があろうとその手は何人ものプラントの兵士の血で染まっている。アスランの大切な人たちだ。好意を持つ方が難しいのだ。彼も恐らく、敵国出身のアスランが気に入らないはずだ。

「アスラン様、オーブには慣れましたか?」

穏やかに微笑むニコルはキラから視線を少しずらしアスランに向けた。光り輝くその瞳は硝子のよう。どこか弟に似たその瞳を彼女は嫌いではなかった。義務だったとしても彼の優しさがどれだけアスランを救っているか。

「少しずつではありますが。アマルフィー様もお元気そうで何よりです」
「はい。殿下、よろしければニコルとお呼びください」

彼の無垢な笑みがどうしてもシンと被ってしまう。彼が本当に良い人だということは既にわかっている。しかし、左胸の勲章を見る度にアスランの胸は痛んだ。

「閣下、お世継ぎのご誕生を心よりお待ち申し上げます。覇王の再来ともいえる皇子はオーブ帝国と勿論プラント帝国の光となりましょう」

彼の言葉は、他の人々の代弁のように思えて仕方がない。この国のほとんどがそれを望んでいる。オーブとプラントの血を分けた皇子。言うのは簡単だが、実際には難しい。皇帝に尻を叩かれて三ヶ月で三回ほどしか離宮に顔を出さず、他の女と床を共にする。彼よりも問題なのはやせ細るばかりで妊娠しても流れてしまいそうなほど儚い彼の妃。

キラが料理長を脅したことをアスラン付きの女官が伝えたため朝食と昼食は口に入れたが、戻してしまったことも耳にしている。化粧で隠してはいるが、青白い肌は病的だった。

だがキラにはどうしても覇王が必要なのだ。皇帝になるために。そしてプラントを服従させるための近道として、プラントの血が半分流れている子供が鍵となる。その子供とアスランはいずれプラントの生き残りと呼ばれることとなるだろうが。キラはひれ伏すことよりも滅亡を望んでいた。

――光……ね。確かに僕にしてみればこの上ないジョーカーだけど

ニコルの飛んだ発言にキラは鼻で笑う。純粋に言葉を紡ぐ彼がキラは好きだ。王位継承権を争う弟たちよりもずっと、ニコルの方が弟らしい。キラも彼を可愛がっていた。一癖も二癖もあるキラやイザーク達と常に行動を共にしているにも拘わらず、まっすぐな性格とキラと対照的とも言える素直な心。人殺しを嫌うが国を守るために戦っている勇気ある戦士。甘い。そう感じることは多々ある。だがキラはそれで良いと思っていた。

「両殿下、失礼いたします。行くぞニコル」
「はい。それでは閣下、アスラン様ごきげんよう」

乱暴にイザークが頭を下げるのに対し、ニコルは丁寧にお辞儀をした。キラは適当に頷き、アスランはまた凍り付いた笑顔を見せる。彼らはすぐに人の波へと消えていった。ふたりらしい態度にキラは上機嫌となる。やはり貴族や皇族などつまらない。

「あらあら、ジュール隊長とニコルさんは行ってしまいましたの。遠くから見えたので一緒にご挨拶にあがろうと思いましたのに」

挨拶も無しに耳に入ってきた声にキラは舌打ちをする。おっとりとしたトーンで話す人物は彼が知る限り一人しかいなかった。それはキラの一番苦手な人物であるラクスである。

キラとアスランの披露宴だというのに、ラクスは彼らよりも目立っていそうなドレスに身を包んでいた。白と淡い桃色のドレスは肩が大きく開いていて胸元に大きなリボンがあしらってある。髪も宴用にセッティングされていて毛一本一本が煌々と光っているようだった。

「キラ殿下、おめでとうございます」
「ありがと」

面倒そうに返事をするキラにラクスが困ったように笑う。キラは彼女が本当は困っていないことを知っていた。

「お初にお目にかかります、アスラン様。ラクス・クラインと申しますわ」
「妹のルナマリア・ホークです」

女性だというのにドレスは着ずにニコルと同じ作りである男性専用の正装を着ているルナマリアが頭を下げる。あくまでも軍人であることを主張していることがわかる。薄く化粧をしてはいるものの、華やかなラクスの隣ではどうしても霞んでしまう。キラは彼女に視線を向けないように逸らす。目があって勘違いをされても面倒なことになりそうだった。

「閣下の副官をしております。お見知りおきを」

キラは逸らしていた視線をルナマリアに向けた。今の言葉は余計である。表情は普段と変化が見られないが、アスランを見つめる視線には嫉妬が孕んでいる。キラは心の中だけで舌打ちをする。だから女は嫌なのだ。

「わたくしは神殿に仕える巫女のためクラインの名を継承いたしました。そのため妹とは違う姓なのです。アスラン様も巫女だと耳にしましたわ」
「ええ。私は名前だけでしたが、巫女でしたので一応は」

キラはアスランを一瞥した。普段は口を開かない彼女が珍しく普通の会話をしている。ラクスは頑なな彼女の心すら動かしてしまうのか。オーブの女神の名を持つだけはある。しかし、キラはアスランが巫女だったことは初耳だった。しかし、名前は意図的に口にするつもりはないようだ。それだけを言うとまた口を閉ざしてしまう。

「キラのお母上がわたくしたちの父と兄妹にあたりますの。皇族ではありませんがキラとは、いとこの間柄ですわ」

アスランは曖昧に返事をした。ラクスはまだ世間話を続けるようだ。キラはうんざりした。

「先日離宮に伺ったのですが、体調が優れないようでしたので。やっとお会いできて嬉しいですわ」

笑顔を向けるラクスにアスランは恐怖を感じていた。どうしてか、彼女の笑顔が隣に座るキラと被ってしまう。彼とは違う意味で感情が読み取れない。穏やかな瞳は翳るアスランの表情を映す。その瞳は隣で姉に付き添うルナマリアのものと似ていて、アスランは逸らしたくなった。

「是非ラクスとお呼びください。妹のこともルナマリア、と」

穏やかな口調だというのに“NO"と言わせないラクスにアスランが苦笑を浮かべた。プラントではいなかったタイプである。率直に苦手だと感じていた。アスランはシンとディアッカと行動することがほとんどだったので特定の同世代の女性と交流を持ったことがなかった。どう振る舞うべきかわからない。

「そんなことより、一人足りないんじゃないの?」

キラが肘をついて言った。アスランに助け船を出したつもりではないだろうが、実質そうなった。だがアスランは感謝の言葉を述べたくはない。どんな形であろうと彼に礼は述べたくなかった。

「中庭にいますよ。あの子ったら転んでドレス破いちゃって。少しだけですけどホールにはいるのは恥だからって」

ルナマリアが呆れた口調で言うと、ラクスが彼女の肩を叩いて宥めた。姉妹は全く違う格好をしているというのに確かに似ている。しかし、雰囲気はまるで違った。

「アスラン様、薔薇はお好きですか?」
「薔薇……ですか?」

いきなりの質問にアスランは首を傾げた。国土の殆どが砂漠に覆われているプラントでは草花が育ちにくい。そのため皇族のアスランも薔薇は特別な日しか飾られないほど重宝されていた。一応庭園もあったが、花を愛でるほどの余裕はなく、殆ど野菜を栽培するために使われていた。花にやる水はないのだ。

「はい。わたくしは薔薇を育てているのです」
「あ……えっと」

敗戦国の出身である彼女はいくら皇弟妃とはいえ行動は制限される。誰にも外出禁止を命ぜられたことはないが、まだ彼らの中で敵国の姫であるという印象は消えていない。どう答えればいいのかわからず、アスランは口籠もった。

「キラ様、よろしいですわよね?」

ラクスは答えられないアスランを見てからキラへと懇願する。彼は何故自分に尋ねるのかわからなかった。

「ナタル先生に聞いてよ。僕の管轄外」

キラはラクスに聞こえないように、めんどくさいと言った。殆ど顔を合わせない妻のことまで面倒は見きれない。離宮のことは全てナタルに任せてあるのだ。彼女が駄目と言えば駄目、いいと言えばいい。それでいいではないか。

「またそんなことを。いくらあのバジルール女官長でもキラの許可があればお許しになるはずですわ」

今日のラクスは少し強引なくらいだった。普段はキラが一度拒否をすれば引き下がるが、今日は食らいついてくる。それほどにしてまで何を企んでいるのか。それともただ純粋に招きたいだけなのか。お節介の彼女ならば後者もあり得そうだ。

確かに正論だが、キラは口添えをするつもりはない。彼女には離宮に留まっていて欲しい。外に出て諜報活動でもされたら計画が倒れてしまう。ただの姫ならそこまで頭が回らないだろうが、別働隊の進軍を止め、長らく皇帝の名代をしていた女だ。頭が切れないはずがない。そして城下町や城内に絶対にスパイがいないとは言い切れなかったのだ。そうなれば鳥籠に閉じこめておくのが一番だ。

「お姉様、それくらいにしてください。両殿下が困っていらっしゃいます」

ルナマリアが姉の腕を引いた。先ほどから主役の前をラクスとルナマリアが陣取ったままで、周囲は訝しみながら彼女たちを見ていた。いくら従姉弟とはいえ、キラは皇族でラクスとルナマリアは中流貴族なのだ。一歩下がっているのが当然な社交界での堂々とした態度。それに気がついたルナマリアがなるべく角を立てないようにして姉に退場を要求した。

「アスラン様、必ずおいでくださいね。その時にプラントのこともお聞かせください」

ラクスがその言葉を皮肉で言ったのか、本心なのかキラにはわからなかった。だがラクスが考えも無しにプラントという言葉を発するとは思えなかった。彼女なりに何か思惑があって口にしたのだろう。したたかな女だ。きっとそう思っているのはキラだけのはずだ。

キラは横目で隣に座るアスランを見た。驚いた表情で唇を結んでいた。そこには明らかな戸惑いがある。普段真面目な顔を崩さない彼女が顔を歪めたのだ。プラントという言葉に敏感なアスランは良い言葉に捉えなかったのだろう、ドレスを握りしめる手が強まっていた。

気がついているにも拘わらず、キラは彼女に言葉をかけない。かけたところで気休めにもならないだろう。それに別に彼女がショックを受けようとキラには関係ないのだ。世継ぎさえ生めばいい。それだけの道具だ。

ラクスは背を向けると渋々その場から去っていく。しかしそれを促したはずのルナマリアはしばし立ちつくしていた。嫉妬が孕んだ瞳はまたアスランに向けられている。恐らく本人は気がついていないもの。それからすぐに視線を逸らす。

キラを愛するルナマリアにとって愛がなくても隣にいて祝福される存在であるアスランに嫉妬を抱く。その感情はキラも理解できなくはない。しかし嫉妬心以上に劣等感が勝っているように感じられた。いつも前向きな彼女が俯いていた。

――僕と関係を持っていることに対しての罪悪感?それともこの女に負けているっていう劣等感?よくわからないな……女は

いとこの巫女も、隣で俯くプラントの女神も自分の右腕である副官も、キラの理解の範囲を超えている。分からないから面倒。面倒だから考えない。それが一番だった。