Caged bird |
オーブ皇帝の弟であり、オーブ軍最高指揮官であるキラ・ヤマトとプラント帝国第一皇女であるアスランが婚姻してから三ヶ月の月日が流れた。穏やかに流れる季節とは違い、キラとアスランの関係は動くことなく、互いに互いを拒絶し合っている。 婚姻した時は心地よい風が吹き、程よい気温だったオーブも段々と蒸し暑くなってきた頃だった。アスランの部屋から見える桜はすっかり葉桜に変わり、春特有の色とりどりの風景は徐々に緑色に変化していった。 アスランの故郷であるプラントは年中高温の環境にあるものの、オーブよりは湿度は低く、日陰に入りさえすれば暑さは凌げた。しかしオーブの暑さは湿度にある。ムシムシとした気候にも帝国にも慣れることができず、アスランはさらに塞ぎがちとなってしまった。 オーブの夏の暑さに体調不良を起こしているアスランを見て誰もが子供を産めないのでは、と不安になり始めたのはこの頃だった。元々細く儚いイメージのあるアスランはオーブに来てからは食の違いのせいか、ストレスのせいかやせ細るばかりで、どうにか食べてもらおうと女官長を始めキラを支持する大臣達は策を練った。 毎日宮廷料理人に最高級の食材でスタミナ料理を作らせているがアスランはほとんど口にすることがない。体調不良によるものであるのだという結論に至ったが、放っておけば死んでしまいそうなアスランをどうにかしようと宮殿中は小さな事件となっていた。 彼女と話をしながら食事をして彼女を元気づけ、そのまま世継ぎを作ってこい、というストレートすぎる皇帝の命令にキラは仕方なく離宮へと赴いた。アスランは嫌いだが死んでもらってはキラが皇帝になるという計画が倒れてしまう。それだけは避けたい。事前にナタルにどういった話をするか指示されているのでそれを言えばいいだけだ。抜かりない教育係にキラは頭が上がらない。 キラとその妻が住むために作られた離宮には、彼の寝室や書斎等も用意されている。彼は一度もその部屋を利用したことはなく、大抵は女性の家に泊まっている。皇帝の弟であるキラを家に招きたがる女性は星の数ほどいた。 キラが離宮に姿を見せると女官達が大変驚き、そしてキラの存在に恐怖心を抱いている素振りを必死に抑えている。将軍という肩書きのせいか女性は見初められるためにキラに媚びるか、恐怖心から何が何でも関わらないようにするかのどちらかだった。それはキラを皇帝の弟とみるか、将軍とみるかの違いだった。だから彼は女を軽視している。男よりも貪欲で嫉妬心を剥き出しにする愚かな生物だ。 「わ、私……殿下をお呼びして参ります」 ミリアリア・ハウも、もちろん後者であった。女官のほとんどはキラを恐怖の対象としており、彼女も例外ではない。雰囲気を作り、彼らを盛立てるのも女官の仕事の一つだった。誰から見ても互いを慈しんでいるように見えない。アスランは凍てついた心ですべてを拒絶し、キラは彼女を道具として扱っていた。 ミリアリアは逃げるようにしてアスランの自室へと急ぐ。ノックをすると返事を待たずに扉を開けた。名を呼ぶとアスランが幽霊のように視線を向ける。薄暗い室内が月明かりだけが照らしていた。アスランの白い肌が際だっている。虚ろな瞳はすぐさま窓の外へと向けられた。 「お食事の準備が整いました」 「……いりません」 消え入りそうなアスランの声にミリアリアが続ける。 「キラ殿下もおいでですので」 懇願する彼女の想いも虚しく、アスランはそれを拒否する。初めから食事を採る気分にはならなかったが、キラがいると知って更にその気がなくなった。その単語ひとつだけで全てのエネルギーを奪ってしまいそうだ。彼の顔など見たくもない。 「ですが、何かお食べにならないと……」 「……すまない」 それ以上踏み込むことをアスランは許さなかった。仕方なくミリアリアは退く。キラとアスランに挟まれて潰されてしまいそうな心をどうにか持ち直し、キラの元へと急ぐ。将軍の白い軍服の上着を脱ぐと上質なデザインのシャツが現れる。中も白く、色はなかった。既にキラは前菜に手を付け始めていた。 ミリアリアが戻ると、すぐさまキラは彼女の存在に気がついた。鍛練を積んだ軍人は人の気配に敏感であるため、否応なしに気配を察してしまう。キラの場合少し神経質だと思われるくらいだった。眠っているときも殺気を感じてしまうほどである。本当に心が安まるのはニコルやイザーク達といるときくらいだろう。 「キラ様、妃殿下は召し上がらないと」 ミリアリアは何度も謝罪の言葉を述べる。機嫌の悪い時に思い通りにならないとキラは何をしでかすか分からないという予備知識が既に彼女の脳内にインプットされていた。少しでも気を鎮めてくれればと、彼女は頭を下げる。 そんな彼女に視線を向けるわけでもなく、キラはそんなことなど興味がないと言うように空返事をする。 ――こっちだってあの馬鹿の命令じゃなきゃこんな所来ないし。あんな陰気くさい女と食事もまずくなるっての 毒を吐きながらもキラは表情を出さないように笑った。周囲から見れば嘲笑にしか見えない笑みにミリアリアの表情に不安が浮かぶ。彼はアスランの心中は察しているつもりだった。頬杖を付くと乱暴にフォークで前菜を刺した。金属と食器が擦れて誰もが不快に思う高音が響く。 口に入ってくるものは食べ慣れた最高級の食材だというのに、食べさせられているような感覚にさせられる。恐れおののくミリアリアの息遣いは快感に値した。 「そんな態度では奥方といつまでもうち解けられませんわ」 少し直った機嫌を底まで落とす闖入者の声にキラは気に食わないという態度をあからさまに取った。振り向かなくともその人物が誰かなどわかっていた。 「何か用?ラクス」 キラは振り返らずにナプキンで口を軽く拭くとテーブルに置いてあった弱めのアルコールを口に含む。態とらしく上品な行動は彼女に遠回しに迷惑だと伝えるためだった。 「あら、いとこを訪ねるのに理由がいりまして?殿下」 「皮肉のつもり?その呼び方」 「ふふ、失礼いたしました。将軍閣下」 おっとりとした物腰でそう訂正するラクスの言うとおり、彼女はキラと従姉弟の関係にあった。キラの母とラクスの父親が兄妹である。ただし、キラは皇族でありラクスは貴族である。 キラの母の実家は下級貴族で、彼の母が見初められ、輿入れしたことで上流貴族として成り上がった。そして生まれた子供が男子で、しかも第三位皇位継承者であり、皇帝に就く可能性も十分にあるため、ラクスの父親は一気に権力を手にしたのである。 しかしそれもキラの母親が崩御すると共に地に落ち、今では中流貴族の中に埋もれている状態にあった。それでも娘達の活躍で徐々に名を取り戻しつつある。仮にキラが次期皇帝となればラクスの父親は上流貴族の中でもトップに立てる。それを彼は狙っている。彼の黒い噂はキラの耳にも届いていた。 「ご一緒しても?」 「勿論。丁度一人分余って困っていたところだから」 キラの皮肉じみた言葉にラクスは整った顔を歪めた。それでも醜い表情にはならず、美しさは増すばかりだった。しかしキラは彼女の美しさを嫌っている。ラクスを美しいと思うことはあるが、欲しいと思ったことはない。彼女の美しさと穏やかさに惹かれることがないのだ。もしかしたら彼女がキラの言うとおりにならないからなのかもしれなかった。 「……そういえば、妃殿下は如何なされたのですか?」 奥方と言われ、キラは無表情の妻を思い浮かべる。はっきりと思い出すことが出来なかったが、藍色の髪だけは思い出すことが出来た。彼女をきちんと見たことはほとんどない。彼女もラクスと同じように美しいとは思うが、欲したいとは思わない。だが、ラクスと違い思い通りにならないからではない。 「気分が悪いとか言ってるらしい」 「『らしい?』キラが見に行かれたのではないのですか?」 キラは空になったグラスを持ち上げて女官にお代わりを求める。すぐさま人形のように卒のない動きをした女官がそれを注ぐ。彼は彼女の問いを肯定する意味合いを込めた視線を送るとそれを一気に飲み干した。そしてすぐさまお代わりを求める。女官の動きは先ほどと全く一緒だった。 「キラがお声をお掛けになれば奥方もきっと心をお開きになるはずですわ」 「別に僕はそんなことはどうでもいい。彼女は道具だ。僕が手を差し伸べる必要なんてないよ。食べたくなければ無理に食べさせることないよ。僕は困らないし」 ラクスの言葉は理想論だ。根本的に合わないキラとアスランにはそれは不可能だった。ハンガーストライキなど思春期の子供がすることと一緒だ。ただの我儘としか思えない。 ――全く、プラントではどんな育て方してるの。 関係ないと言い切るキラにラクスが小さく笑い、小首を傾げた。キラはそれを横目で睨み付ける。ラクスの表情は変わらなかった。髪の色よりも薄いルージュの引かれた唇が弧を描いていく。 「あら、お世継ぎが生まれなかったら皇帝の位を継承するのは難しいですわ。周囲は将軍としての貴方の働きを認めてはいますが、ヴィア様の出自から反対する者も少なくありません。貴方が皇帝になるにはアスラン様が覇王をお産みになるか、他の継承者が亡くならない限り、ほとんどないに等しいですわね。少なくとも陛下は許しませんわ」 ラクスの言葉にキラは子羊を切るナイフを止めた。それから正面に座るラクスを見上げた。言い聞かせるようなラクスの表情にキラは苛つくのが止められない。すべて正論だった。 確かに彼女はキラの道具だった。切り札なのだ。最初で最後の。両国の血を継いだ皇子が生まれれば形勢逆転となる。その皇子は覇王となり、オーブとプラントを支配する権利を持つこととなる。プラントの民衆も侵略されるのではなく、プラントの皇女であるアスランの子供となれば素直に従うことも目に見えていた。嫁いだとはいえ、彼女はプラントの象徴である。 不本意だが、ラクスの言葉は正論だった。キラは乱雑にナプキンで口元を拭くと勢いよく席から立った。彼女の言うとおりにすることが我慢ならなかったが、従うしかあるまい。返す言葉もなくキラはラクスを睨み付けた。こうしていつもラクスはキラに助言をする。それはいつでも正しく彼を導いた。何でも知っているような彼女がやはりキラは苦手だった。 怒り混じりで歩くキラを怯えた瞳でミリアリアが見ていたが、それを気に留めずキラは進む。貴族の煌びやかで滑らかな質感のシャツを着たキラは離宮の赤い絨毯の先を無言で目指した。日当たりの良い彼女専用の牢獄である。 その部屋から見える中庭と海の眺めはこの世のものとは思えないほど美しい。まるで楽園のようだと訪れた誰もが口にする。心地よい風と暖かい太陽の光、それは最高級の鳥籠。宮廷ではアスランの住まう部屋と離宮全体を指し、しばしばその言葉が使われるようになった。 鳥籠の前で舌打ちをするとノックもせずに部屋へと入る。静かに扉を開けると夏の夜特有の心地よい風が彼を出迎えた。室内は薄暗く、青と黒と白だけの世界だった。彼が今まで立っていた明るく灯火のある世界とは別世界のようである。 暗闇の黒と月光の白に彼女は紛れていた。窓枠に体を寄せて何をするでもなくじっと外を見つめている。怒りや憎しみどころか慈しみや悲しみすら存在しなかった。そこに感情はない。 後ろ姿からも病的に肌が白いことが窺えた。そして骨と皮しかない手首は見るも無惨である。どこをどう見ても彼女に子供を生む体力はない。身籠もったとしても流れてしまいそうなほど彼女は儚く思えたのだ。 窓からの風がアスランを撫で、藍色の髪が靡いた。指に絡みつくそれを思い出し、キラは目を細める。それに触れたのはもう三ヶ月も前の話だった。彼女と関係を持ったのは二度だけだった。仕事を理由に皇帝からの命から避けていたのである。今日は特別だった。 今にも倒れそうなほど彼女は弱っている。キラは苛つく気持ちをどうにも抑えられず、静かに部屋を去った。心の中で何度も彼女に皮肉を言うが、彼女には届くことはない。 キラが戻ると、ラクスはアスランに用意した最高級オーブ料理を食べていた。彼が来たことに気がつくと、顔を綻ばせながら立ち上がった。親戚筋とはいえラクスは貴族であり、キラを敬う立場にある。 「キラ、如何でしたの?」 「寝てたよ。意識のない女性の体を観察したり、断りなく触ったり、そんな無粋なことをするのは趣味じゃない」 いかにも紳士のような発言をしてみればラクスは唇に指を当てて困ったような表情を浮かべた。 「あの方はオーブに来て日も浅く、気候の違いや文化の違いに戸惑われていらっしゃるのかもしれませんわ。それにお輿入れされた理由が理由ですから」 キラの皮肉はラクスに通じていなかった。かといって鈍感なわけでも天然なわけでもない。キラ自身よりキラを理解しているのは彼女くらいだろう。しかしそれが逆に気に食わなかった。 離宮の食事を担う女官を呼び止めると、キラは必ずアスランに毎食残さず食べさせるように指示をした。少しでも残したら離宮専属の料理人も含めた担当女官の全員の食事を抜くと脅せば、恐怖に顔を歪ませた女官が甲高い声で返事をした。 「キラ、あまりに強引じゃありませんか?」 「味付けも気候も慣れる。彼女に死なれては困ると指摘したのは君だ。……彼女は他人に迷惑を掛けても自分の意志を貫く人間だと思う?」 キラと皇帝に抗うために拒食しているアスランだが、もし他の人間に迷惑が掛かるのだとしたらどうするだろうか。例え迷惑が掛かる対象が憎い敵方の人間だとしても彼女は食事を採るとキラは確信していた。 他人のために尽くす人間でなければ前線に出ることも、国のために犠牲になることもなかっただろう。しかし、キラはいまだに彼女が戦っている姿を想像できなかった。弱々しく儚い印象ばかりだ。 ラクスがキラの言葉に口籠もる。正論を目の当たりにし、反論する言葉を失った彼女は唇に手を当てるのが癖だった。キラはこれを見る度に優越感に浸ることが出来る。丁寧な言葉を使いながらもいつでも見下している彼女の普段見せない表情だからだ。 「ですが、折角ご結婚なされたんですもの。仲は良いに越したことはありませんわ」 ラクスが食事を再開させた。白い手が銀色のナイフとフォークを扱う。上品過ぎる手先と彼女の言葉にキラは吐き気を覚えた。想像するだけでも失神してしまいそうになるのをどうにか持ち直し、自分もフォークとナイフを持ち、食事を再開させる。食べ慣れた味だというのに、いつもよりずっと味が薄い気がした。 |