peaceful every day



プラント帝国は砂漠地帯と暑い気候が特徴の地。水は限られており、砂漠ばかりで作物が育つ環境に向いているとは言い難かった。その代わりなのか海産は豊富に捕れ、城下町にある港には常に大漁の魚が並んでいる。

海に面してはいるものの海水を家庭用水にすることは難しく、雨の降らないことが続くとプラントでは死活問題となっていった。海水を蒸発させ、塩分と分離させれば簡単に飲料水ができあがる。しかしこのやり方は極めて小規模且つ時間がかかるすぎる方法であり、帝国専門の開発部署が大規模な飲料水を作り出すことのできる濾過装置を開発中であった。しかしながらその装置を製造しようにもコストが大きすぎて開発は難航している。

戦地に赴いた兵も水不足に喘いでおり、限られた田畑で作られていた作物も水不足でほとんど育たずに枯れてしまうというケースが相次いだ。そんな深刻な水不足を打破するためにはオーブが必要なのだ。

その日も水問題に取り組んでいる開発機関では新たな実験が行われていた。その研究チームの中にプラント帝国皇帝の娘であるアスラン・ザラも加わっていた。

プラント帝国皇帝正室の生んだ第一子、第一皇女であるアスラン・ザラは女性でありながら父の不在を任されている。第一皇子である同母弟や異母弟たちはまだ幼く、守られる立場にあるため。そして叔父たちも戦線に出ており、正室である彼女の母親は政に疎く、皇族や大臣そして民を束ねるには彼女以外に適任はいないであろう。

その彼女が早々に着目したのは濾過装置の開発。大規模な濾過装置が完成すれば民衆の生活は楽になり、これまで死活とされていた水問題も解決される。そう考えたのだ。

「殿下」
「ああ」

皇女とは思えない格好は男物とも思える質素なものだった。ドレスでは動きにくいからと剣の練習によく用いている服を身に纏い、長い髪を白いリボンでひとつに結っている。

アスランは研究員に渡されたビーカーの中をよく凝らして見てから迷わずにそのビーカーの中身を口に入れた。

「殿下!何をなされます」

驚いた研究員は思いきったアスランの行動に目を丸くした。完成していない濾過装置の水を皇族が口にし、何かあっては間違いなく研究員全員の首が飛ぶだろう。そして彼女はこの帝国に必要不可欠な存在であることは全国民が知っている。

「まだ塩分が大分強い……」
「ですがこれでも随分と下がった方です」
「下がったと言ってもこれでは作物や飲料にはできない。それまで濃度を下げなくては」

数人の研究員とアスランが濾過装置を取り囲んでおり、後ろでは蒸留装置の開発を住人ほどの研究員が進めていた。どちらかといえばこちらの方が完成率は高い。ただし規模が大きくなれば大量の塩水が入り、熱に耐えられる器が必要だった。それを作る技術はプラントにはない。

「殿下、そろそろ時間です」

軽くノックをし、研究室に入ってきた青年は室内のむわっとして異様な空気に思わず目を細める。蒸留しているため上がった室内の温度により生じた熱気と大量の海水の独特の匂いはお世辞にもいい香りとは言えない。

「ディアッカ、気持ちはわかるけどそんな顔するなよ」

びっしょりと汗をかいたアスランがディアッカの胸をぽんぽんと叩く。それから今日はここまでと研究員たちに告げる。

「研究は午前中までにして午後は全員で分担して井戸の水質検査にあたってくれ」
「はい」

研究員たちがアスランに一礼するとアスランはお疲れ様、と言って研究室を出て行った。蒸し暑い室内を出れば弱々しい風が吹いていて、それでも高温多湿の環境に長時間いたアスランの肌には心地よかった。

「実験は?」
「何とも言えないな。以前よりは大分進歩したが完成までにはほど遠い。だがめげずにみんな頑張ってくれているよ」
「ここは手に入る物資も少ないしあるものと言ったら砂ばかりだからな」
「陛下が大陸を統一してくださったら、この問題もなくなるんだろうが」

小さくため息をついてアスランは窓の外を眺めた。そこから見えるのは砂ばかりだ。二年前にオーブ軍に主要の川を人為的に枯らされてからは水不足が進むばかりでそのせいなのか砂漠が広がった。いつか帝国全てが砂漠と化してしまうのではないかと誰もが不安になっている。

「そのことなんだけど」
「そのこと?なんだ、そのことって」

言いづらそうにディアッカが自信の頬に手を当て、視線をそらした。その行動を見てアスランは訝しむ。調子者の彼がこんな顔をするときは大抵悪いことだとわかっている。アスランの大切にしていた花瓶を割ったときもこんな顔をしていた。

「実は父上から書状が来て」
「団長から?」

ディアッカの父は騎士団の団長をしている。兵士を統括する役目を担っており、プラントの騎士の中でもエリート中のエリートである五騎士の団長でもあった。その五騎士の中に実はこのディアッカも含まれている。

彼は代々皇族を守る騎士の家系の生まれで、若干13歳で騎士入りを果たし、その六年後に欠員が生じた五騎士に任命された。それからはアスランとその弟の護衛をはじめ、城に残るわずかな兵の統率と少年たちの兵としての育成を残っている五騎士と共に任されていた。

アスランの同母弟は彼に剣を学んでいた。ディアッカの父が戦地に赴いてからはアスランも時々ディアッカに剣を学ぶ。彼は女性とはいえ決して手加減することはなく、アスランは幾度となく全身に痣を作った。幸い跡に残るような怪我はなく、剣の腕も騎士同等かそれ以上に上達し、ディアッカからも何本か取れるようにまでなっている。

戦争中なので女性も子供も皆、自分が生きるための護身術を習う。誰かを殺すためではなく自分を守るための最低限の術。騎士たちが教えている護身術はこの二年間で特に普及が広まった。

騎士団長がアスランに護身術以上の剣術を習わせたことは戦争が拡大することを悟った前皇帝の命によってだと以前耳にしたことがあった。その騎士団長が戦場からわざわざ書状を送って来るというのだから急を要することなのだろうとアスランは察す。

「増援部隊を率いて国境の本陣まで出陣しろとの仰せだ」

その言葉にアスランは固まった。増援部隊を率いて出陣するということは彼も他の兵士たちと同じように戦地に赴き一丸となって戦うということだ。率いただけで帰ってくるなど聞いたことがない。

「どうして!お前は城の守護を任されているのに」

あまりに現実味がなくてアスランは混乱する。この国の女性は皆こんな張り裂けそうな想いになるのだと思った途端に今までわかっていたようで少しもわかっていなかったことに気がつく。アスランの父は守られる立場にいる人間で父が命を落とすことも想像できない。だがどうしてかディアッカが命を落とす場面は容易に想像できた。

それは決して彼が弱いのではなく、彼が誰かを守る立場にあり、敵を倒すためなら自らの身を顧みない性格であることを知っているからだろう。

「俺は女性の涙には弱いってご存じでしょう、殿下」
「殿下って呼ぶな!俺は……」

目端に涙を溜めながらアスランが反論する。“殿下”と呼ぶ彼はわざとらしくて軽く突き飛ばした。彼はふたりきりのときや弟がいるときに以外はアスランに敬語を使い殿下と呼ぶ。こうしてふたりきりの時に殿下と呼ばれることをアスランは嫌っている。彼女にとって身分という壁は心の壁に感じてしまうからだ。

ディアッカの家系はプラント帝国王家に仕える騎士でアスランは皇女。存在する場所は近くとも身分が遠くしている。アスランは彼が命を散らすことを望んではいない。アスランにとって彼は幼馴染みであり、剣の師でもあり、そして恋人でもある。

「皇女殿下が“俺”なんて言ったら皆がっかりするぞ」
「茶化すな。俺は真面目に考えてるんだ」

戦地に赴き戦うことをそこまで重く捉えていないディアッカは涙目になりながらも怒るアスランを見て苦笑いをする。彼はアスランが涙目になるところは幾度となく見てきたが涙を流しているところは見たことがない。辛抱強い彼女は誰にも弱さを見せることがない。戦争に行くと告げたら涙を流してくれかもしれないという淡い期待はあと少しのところで消え去ってしまった。

「もっとポジティブに考えたりってできない?」
「何だよポジティブって」
「お前ネガティブ思考じゃん」

アスランを“お前”呼ばわりするのは皇帝とディアッカくらいだろう。他の人間が聞いていたら大問題に発展するやもしれないほどディアッカの口調は危うい。しかしアスランはお前よりもネガティブ思考という彼の発言に反応する。

「ネ、ネガ……!」
「俺はさ、考えがあるわけ。戦争行ってオーブの兵士たちを誰よりも倒しまくって、陛下に俺のことを認めてもらう。そんで俺たちのことも認めてもらう、どう?」

難しい話ではあるが騎士とはいえ上流貴族のディアッカと皇族であるアスランの婚姻は可能だ。もしふたりの性別が逆だったら簡単に話がつく。しかし皇女は昔から政の道具として他国や反発勢力へと嫁がされるのが常であった。

しかし戦時中の国内を任されるほどの力量を持ち、民衆の支持も厚いアスランならば皇帝も手放したくないだろう。ディアッカは父から“皇帝が重臣の中でも婚姻相手を探している”という噂を聞き、皇帝に力を見せる機会を待ち続けていた。

「そんな簡単に陛下がお許しになるはずないだろう」
「やってみなきゃわからないだろ。考えようによってはチャンスってわけだよ。俺って今同世代じゃかなり抜きん出てるらしいし」

ようは考え用だよと明るく捉えているディアッカに心配性のアスランが表情を曇らせる。確かに彼は誰よりも抜きん出て強い。それがアスランのためだということは知っていたけれど彼が戦地に赴くと言うことにどこか胸騒ぎを感じる。増援部隊を要するほど戦況はこちらに不利になっているのではないか。それとも勝機が見えたから一気に叩くため増援を求めてきたのか、どちらにせよアスランの想いは複雑だった。

――っと、それより皇太子殿下に剣の稽古をつけなくては」

ディアッカが話はこれで終わりだと言わんばかりに話題を変え、両手を返した。剣の稽古と言われアスランは城の中心に位置する砂時計を眺めた。

プラントの象徴とも言える砂時計は城内、城下町のどこからも見ることができる大きなものでプラントの民は皆この砂時計を基準に暮らしている。城を建てる際に作られたものでプラント帝国よりその歴史は長い。砂漠の国であるプラントらしい象徴だともアスランは思う。

確かにディアッカが皇太子に剣の稽古をつける時間だった。だが誤魔化されているようで納得いかない。だが彼はもう話をしないつもりらしくアスランは仕方なく引き下がった。

「あいつが城にいるとも思えないが……」
「同感」

小さく溜息を吐くとディアッカとアスランは城の長い廊下を歩いていった。




***




海は静かだった。

彼がずっと見つめていても変わることはなく、穏やかに波打っている。いつもと同じ光景だ。そんな静かな海も荒れることがある。人を飲み込み全てを流してしまう。でも彼は本来の海はそんな激しく凶暴な存在のように思えて仕方がない。

「皇太子様、こんなところにいたらアスラン様に叱られますよ?」

港を通る見慣れた商人が軽く注意をしたが彼は生返事を返すだけで視線は変わらない海へとそそがれている。海の向こうで起こっている戦争が彼の心を掻き乱していた。城にいれば頭がおかしくなりそうなのでこっそりと城下町に逃げてきた。それは頻繁なことで大臣たちは口を酸っぱくさせながら注意をするけれど彼は言うことを聞かない。

その背景には姉であるアスランの言葉があった。アスランは彼が城下町に出ることを唯一賛成している人物である。皇帝になるべきもの、色々なものを見て色々なことを聞いて体験しなければ国を治めることはできないとアスランは彼に伝えた。実母姉であるアスランの言葉は彼に大きく影響し、毎日のように城下町に足を運んでいた。

ただ“行くときはディアッカを連れて行くこと”というアスランからの条件を彼は一度も守ったことはない。だから帰ったときアスランにこっぴどく叱られる。アスランは優しく寛大であるが約束を守らないものに対しては厳しく皇太子に対してでさえ手をあげることもしばしば見受けられた。

しかも彼が逃げ出す時間は決まって彼が大嫌いな剣の稽古の時。なので姉もディアッカもカンカンに怒る。この砂漠の民は時間を守らない人間には特に厳しいのだ。皇族だからこそ時間と規律に縛られていなくてはならないのだとアスランは言う。

彼は姉とは違う。姉のように強くないし勉強も嫌いで、父に認められているわけでも、民衆から慕われているわけではない。剣術は騎士と同等以上の腕を持ち、勉学にも優れ、国を任されるくらい皇帝にも認められている姉を彼は尊敬している。

しかしそれ以上に何もかもに縛られているアスランに同情していた。そして彼女のようにはなりたくないとも思っている。彼女の言うように一生懸命剣の稽古をし、勉強に励めばきっといい皇帝になれるだろうが彼はそんなことは少しも望んでいない誰も彼に期待をしてないのだから何をしようと意味がないことなのだ。

剣の稽古をするのは戦場に出ると決まってからでも遅くないし、軍師や学士になるわけでもないので勉強したり本を読んだりということもしたくない。そして何よりも彼を苦しめるのが歴史の勉強だった。

プラントの歴史は戦争ばかりで戦の中に起こった事件、戦で名をあげた人間、起こったことも全てが戦争のことばかり。繰り返さないために学ぶと彼に勉強を教えるアーサーは言うが歴史を学んでもプラントとオーブは幾度となく戦争を繰り返してきた。停戦になった直後は皆もう戦争を繰り返さないと誓うがそれはすぐに破られる。そんな愚かなものを学んでもまったく意味をなさない。それなら退屈な帝王学の方が随分と為になる。血なまぐさいことばかりだから歴史が嫌いなのだと自分でも思う。

「シン殿下」

聞き慣れた甘ったるい声にシンは海に向けていた視線を顔ごと後ろに移し声の発せられた方向に向ける。皇太子である彼をこう呼ぶ人間はたくさんいた。大臣に城下町の人々に女官。その他にもたくさんいる。ただしこうやって彼を捜して声を掛ける人間は限られている。案の定そこには腰に手を当てたディアッカがそこにいた。

「ディアッカ先生……まず!」

青ざめた顔を浮かべながらシンは急いで立ち上がり、港から逃げようと床に置いてあった護身用の剣を右手で素早く取り、ディアッカを避けるように反対方向に走り出す。海に飛び込むという策もあったが濡れて帰るとそれこそ大変な目に遭ってしまうためそれだけは避けたい。

もしディアッカに捕まったらこっぴどく叱られて耳が痛いほどの小言もたくさん言われ、いつもより厳しい稽古をされるのだから捕まるわけにはいかない。足は唯一ディアッカよりシンの方が速いからディアッカら逃げることは容易い。追いつくはずもないとシンは高笑いをした。

「先生のようなのろまに捕まってたまるかよ!」

城下町に頻繁に出入りしているため町の人間にしかわからない裏道も熟知しているシンに地の利があることは明らかだ。振り切ってしまえば彼の勝ちは確定する。シンは自分に酔いしれながら港から入り組んで複雑な城下町へと入る道を曲がった。

「わっ」

シンが道を曲がるとそこには女性が居て正面からぶつかってしまった。白いフードを被り小さな籠を持った女性はシンとぶつかってしまった衝動でその場に尻餅をついてしまったらしい。後ろから追ってくるディアッカが気になったがここで手を差し伸べないのは紳士ではない。女性にはやさしく、というのがプラントの男性の嗜みである。

「ごめん、大丈夫?」

シンがそっと手を差し伸べると女性の白い腕が見える。腕にはキラキラと光るブレスレット。そのブレスレットをシンはいやと言うほど見ていた。女性はシンの手を掴むとフードを軽く抓むと顔が見えるように布を後ろへとずらす。

「捕まえたぞ」
「げ……姉上!」

宵に似た藍の髪にエメラルドのような瞳が視界に入りシンは背筋が凍った。後ろからはディアッカがゆっくりと近づいてきてそれにも恐怖を感じずにはいられない。シンはアスランに捕まれたままの腕を上下に振って逃れようとしたが捕まれた手はびくともしなかった。

歳のせいでもあるがシンよりずっとアスランの方が力が強い。毎日稽古をつけてもらい努力を怠らないアスラン力と毎日遊び呆けて稽古から逃げ続けるシンとの力の差ではアスランの方が強いのは火を見るよりも明らかだ。

シンは振り払うこともできずに大人しく怒られた後厳しい稽古を受けるほか道はなくなったのだ。一気にしゅんとしたシンを見てディアッカもアスランも小さく笑う。本当に子犬みたいだ。

皇太子を捕まえに来た騎士とぶつかった女性が皇太子と仲良くしているのを物珍しそうに観賞していた民衆はその女性がアスランであることに気がつきその場は急に騒々しくなる。海が民衆の声に驚いたように大きめの波が港に打ち付けた。

「アスラン様」
「殿下!」

人気の疏らだった港と城下町の境に段々と民衆が集まり、人集りができた。アスランとシンを囲うように民衆が明るい声でアスランの名を次々に口にする。アスランはそれに笑顔で応対し、時には手を握り励ました。民衆のほとんどが女性で、男性は高齢者と子供がいるだけだ。男性大半は戦争に赴き、ほとんどの少年が志願をして軍隊に入ったためプラント中では男手が不足している。

「水は不足していませんか?」
「はい」

握られた手は土に汚れていて衣服も草臥れたように見受けられる。彼女はアスランに心配させまいと笑顔で振る舞ったのだろう、アスランは胸が苦しくなった。やはり早々にも濾過装置を完成させなくてはならない。

「濾過装置を作っていますからそれまでの辛抱です。今日は城の湯殿を解放しますから皆お風呂に入りに来てください」
「ありがたいです」

アスランは二週間から一週間に一度王宮の湯殿を解放していた。もちろん皇帝専用の湯殿ではなく女官たちが利用する大浴場である。はじめはアスランの利用している湯殿を解放しようとしたが大臣たちの猛反対を受け断念した。アスランは皇女であり同時に巫女も担っているため他人に肌を見られてはいけないという古い為来りがある。神への信仰が深いプラント国民にとってそれは大切なことで、大臣の一人は何が何でもアスランを止めようとするために自らにナイフを突き立てるほどの大騒動にまで発展した。

「それから湯殿の残り湯で洗濯をしますのでたまった洗濯物を忘れないようにしてください。今度はいつできるかわかりませんので」
「殿下、ありがとうございます!」

水がないため洗濯ができるのも月に二、三回程という苦しい状況も湯殿を解放するようになってから入浴する度に洗濯ができるようになり、これに関しては女官の大浴場だけでなく皇族の湯殿の水も使われた。そして洗濯で残った水は濁って垢だらけになってしまい飲み水にはならないが作物に蒔くときに使われる。

城に一般民衆が入り込むことをほとんどの皇族と大臣たちが嫌厭したが皇帝の名代を務めるアスランの決定は今では皇帝の決定と同等の意味をなすため、誰も口を出すことはできない。どうしても止めたいと言うときは先ほどのように己の命を引き替えにという固い決意がなければならなかった。

それに大臣たちも民衆が力であることはわかっている。彼らが居なければ自分たちの生活は成り立たない。彼らが税金を納め、畑を耕し、漁をすることで彼らも生きることができるのだ。つまり民衆が死んでしまったりストライキでもすれば彼らも生きていられなくなる。それをわかっているから嫌でも堪えなければならない。民衆を敵に回せば竹篦返しは二倍にも三倍にもなって返ってくる。

「ありがとうございます」

涙混じりにアスランに感謝の意を述べる女性たちにアスランは柔らかく微笑んだ。皇族の笑顔である。幼い頃より皇族として笑顔を絶やさないことを教えられ、いつでも民衆を不安にさせないように務めた。それでもやはり不器用なようで少し困ったような笑顔になってしまうのは彼女の愛嬌とも言えよう。

「殿下がいらっしゃれば、また城下町にオーブの軍勢が攻めてきても追い返して、いや全滅させてやります」
「そうです!殿下」

勇ましく拳を握る女性たちにアスランは苦笑した。彼女たちがアスランを神のように尊敬するのは皇族らしからぬ寛大な対応だけではない。

遡ること二年前、城を守っていた五騎士のひとりタッド・エルスマンが五騎士団長の戦死に伴い新しく団長に任命され、同時に戦地に赴いた。彼は城の守備の要であり彼が戦地に派遣されたことでプラントの守備は半減されてしまった。もちろん彼の他に五騎士の一人が城を守っていたがいくら五騎士とはいえ、一人で守りることは不可能だろう

そんな薄い守りを察したのか、狙ったのかどちらなのかは定かではないがオーブ軍が領域を侵攻し、首都へと軍を進めてきた。陸路でなく直接海路で進軍してきたことからそれは計画的にも思えた。今と同じく当時も男手はなく、いるのは女性と高齢者、子供、重病人やけが人、大臣に皇族といった非軍人ばかり。それが千を越える軍勢に勝てるわけがない。そう察した民衆は慰み者になる前に自決しようとしていた。

そんな彼女たちを叱咤したのは当時十五になったばかりのアスランだった。彼女は自ら剣を持ちかき集めた兵とまだ訓練中の少年志願兵、そして数人の騎士を引き連れて城下町に現れたのだ。そのアスランの姿はいつもの煌びやかなドレスではなく騎士と同じく鎧姿。皇女とは思えない気迫で、その瞳は闘志が宿っていた。

「今私たちが死んでしまったら戦っている兵士たちは何のために戦ってきたんですか!私たちができるのは彼らが帰ってくるこの場所を守ることでしょう!」
「殿下……」
「死にたい人間は死んでいただいて結構。ただ生きる覚悟があるのなら私についてきなさい!」

いつも微笑んでいるだけだった皇女の言葉に誰もが驚き、そうして身を奮い立たせた。どうせ死ぬのなら一人でも多くの敵を殺してから死んだ方がいいそう考えるものは少なくはなかった。死を決意した人々も次々と立ち上がりアスランの名を口にした。

「プラントのために」

胸に手を当てるとアスランは帝国の象徴である砂時計へと忠誠のポーズを取る。彼女の後ろから次々に同じ言葉が発せられてそれは大合唱となった。決死の覚悟で大群のオーブ軍の攻撃を闘志に燃えた民衆が次々と討ち果たし、初めての実戦となった少年兵たちも多くの兵を倒し、その活躍を発揮した。アスラン自身も当時騎士であったディアッカに守られながら数多くのオーブ兵を手に掛け、返り血を浴びながらもオーブの軍勢へと突っ込んでいった。

彼女たちの必死の抵抗によりオーブ軍勢は撤退を余儀なくされた。民衆にも多大なる犠牲があったがそれ以上に大群を退けたことによる興奮と奇跡に誰もがアスランを称えた。それが彼女がプラントの女神と言われる所以である。民衆はこの時よりアスランに多大なる信頼を置き、彼女を崇めている。

再び城が戦渦に巻き込まれることを懸念した大臣たちは早々に五騎士の空席を埋めるべく、戦いにおいてアスランを守り抜いたディアッカ・エルスマンの功績を認め五騎士に任命した。彼の能力も選ばれるに相応しいが何よりもタッド・エルスマンの息子が五騎士になったことはオーブ軍を牽制するには最も効果的だと判断してのことだった。




***



王宮の庭園に、所狭しと干された洗濯物がひらひらと風に吹かれた。元は皇族の憩いの場として造られたその庭園に洗濯竿が設置されたのはもう半年以上も前のこと。はじめは裏庭に干していたのだが日当たりも悪く、乾き難かったためアスランの独断で庭園へと移動させた。

女性たちの明るい声が場内に響く。その中に女官の声も混ざっており、随分とうち解けたものだとアスランは安心する。はじめは女官の大浴場を使うことに彼女たちは猛反対した。自分たちの風呂場を多くの人間が使うことによって汚れてしまうことや平民と共有することに抵抗があったからであろう。

アスランがどれだけ民衆の生活が苦しいか、この国の水がどれだけ不足しているかを説明すれば渋々承知したが、やはりはじめは快く思っていないものが大半で当分いざこざが絶えなかった。しかし民衆たちがお礼にと入浴する度に畑で作物を持ってきたり、宮廷の仕事を手伝ったりするようになると段々と彼女たちはうち解けていったようだ。

同じ時間、同じ王宮の訓練場に鉄と鉄が弾かれる音が響いていた。剣の稽古をサボったシンはディアッカによりいつもの倍以上の厳しい稽古が行われていたのだ。ふらつく足取りに定まらない的、空腹により体力も精神力も限界が近づいているがディアッカは終わりにしようとはしない。

「そこ!」
「あっ」

ディアッカが突きを構えたので一瞬身を引いてそれを防ごうとしたが既に遅く、シンの剣は彼の手元から弾かれた。弧を描きながら勢いよく地に刺さる剣にシンは膝をつく。今日はこれで四度目。一本取れたら稽古は終了だというがこれでは一生終わらない気がする。

「お立ちください、皇太子」
「勘弁してください、先生」

もう立てないと小さな子供のようにシンが首を左右に振った。もう手足が鉛のようで思うように動かない。アスランとは違った意味で皇族らしからぬその様子にディアッカの顔つきが変わる。

「……戦場では誰も勘弁してくれません」

これから戦場に赴くディアッカが皇太子に教えてやれることはもう数少なくなっていた。戦場では生きることを諦めたものから死んでいく。生きるという意志があればこそ、再び立ち上がることもできると彼は思う。ディアッカにとって生きる意味、立ち上がる理由はアスランだ。きっとシンにもそんな存在ができれば変わるのだろうが彼には少々早過ぎる。

「んなことわかってますよ。でもここ戦場じゃないし」

未来の皇帝とは思えない言葉にディアッカは唖然とする。彼にとって愛国心は存在しないのか。まだ十代前半の彼にはおそらくこの戦争の重大さがわかっておらず、その愚かさだけが目に映っているのだろう。だが、そんな彼を支えていくのもディアッカの仕事だった。彼が皇帝の器でなくても、誰にも期待されてなくとも彼を見守ると決めた。彼女と共に。

――殿下も戦場に出られればわかりますよ。陛下のお気持ちも姉君のお気持ちも」

戦場で人を殺せば今まで培ってきたあるものを失う。それはとても大切なものだが何かを守るためには必要だ。そして人を殺めたことで得るものもある。それは領地でも金銭でもなく、人それぞれちがう形をしているのだろう。

「……俺はそんなの一生わかりたくはない」

シンの言葉は砂漠の向こうへと沈んでいく夕日に吸い込まれるようにして消えていった。