Puppet play



水の都と呼ばれるオーブ帝国にアスランが来てから既に二週間が過ぎていた。あまりにゆっくりと流れいく時に歯がゆさを感じながら毎日を過ごしている。そうして二週間目にしてやっと皇帝に呼ばれ、アスランは城の謁見の間へと来ていた。

「プラント帝国第一皇女アスランと申します。お初にお目にかかります、皇帝陛下」

アスランは自己紹介をしながらドレスの裾を両手で持ちお辞儀をする。するとオーブ皇帝は口をすぼめて吹きだし、高い笑いをあげた。それはアスランを侮辱するような動作で、アスランは愚弄されているとわかりながらも必死に平然を装う。

皇帝に謁見するまでの二週間、バジルールという名の女官長にオーブ式の行儀作法を厳しく教えられたが、プラントとさほど変わりはなく、本来ならば一ヶ月かかる女官長の教えは一週間を過ぎたところでほとんど終了していた。バジルールはアスランの挨拶を無表情で見つめ、終わると完璧で当たり前だと言わんばかりにアスランから視線を外した。

「君が“プラントの女神"ねぇ。思ったよりずーっと可愛らしいじゃないか。僕はもっとごついのを想像してたんだけどねえ」

オーブ皇帝はジェスチャーで大女を表現し、ちょっと戯けた表情を見せた。それから厭らしい笑いを浮かべながらアスランを頭の頂から靴の先まで舐め回すように眺めた。その目つきが生理的に受け付けず、アスランは嫌悪感で背筋が凍るような錯覚を覚えた。彼に対する軽蔑の気持ちが彼女の心に渦巻いて剥がれてはくれない。

「大丈夫だよ、そんなに怖がらなくても。僕は取って食おうなんて考えてやしないよ」

軽い口調の皇帝は膝の上に側室らしい女性を乗せ、その女性の脚を撫で回す。女性も皇帝の首に腕を回して時折アスランをせせら笑うような声が漏れていた。

「来てもらって悪いんだけど弟はまだ遠征中なんだ。来週辺りには帰ってくると思うけど、彼は僕よりずっとずっと働き者だからさァ。わからないんだよね」
「左様でございますか」

アスランは必死に笑顔を作ろうとして途中でやめた。自身が無理矢理笑顔を作ることを得意としておらず、きっとわざと作ってしまったら皇帝に不快感を与えてしまうに違いなかったから。だから無表情で俯く。軽い口調で人を嘲る態度の皇帝に嫌悪と憎悪を重ねながらアスランは自分のドレスの裾を睨み付けた。


謁見後は皇帝に対する軽蔑心からか食事がまともに通らず、無理矢理口に入れても吐き気を呼ぶだけだった。二口、三口ほどで食事をやめたアスランはひとり与えられた部屋に籠もっていた。専属の女官から聞きつけたのか、バジルールがアスランの元にやってきたがアスランは体調不良を理由に面会を拒否した。

広い部屋に置かれたのはいくつもの宝石と、ドレス、暇つぶしのチェス。アスランはそれに手をつけることなく窓を開ける。空に浮かぶ月は雲に遮られることなく光り輝いていた。窓の下を覗けば水面に月が映り、不覚にも綺麗だと思ってしまった。

窓から故郷の方角を眺めるのはアスランの習慣と化していると言っても過言ではない。オーブの宮殿ではアスランの行動を束縛した。勝手に外に出ること、人を部屋に呼ぶこと、誰かに手紙を書くこと。それ以外にも細かい規約はアスラン個人に対するもので、未だにアスランが半分以上敵と認識されていることがわかる。

軟禁状態にあるアスランは話し相手もおらず、ひとりでチェスをするわけにもいかず、人生が終わったような気がしてならない。牢獄のような室内で唯一の自由といえば考えることや眺めることだけ。

二度と踏むことはないであろう故郷は遠く、寂しいと思う気持ちも悲しいという気持ちも決して届くことはないだろう。アスランだけがこんなにも国を、愛しい人々を想っていても彼らはアスランほど想っていないだろうと考えると胸が締め付けられた。

皆に忘れられたくない。そんな気持ちがアスランを占める。アスランのことを女神だと称えた民衆もいつかはそんなことを忘れてしまうかもしれない。それなら政略結婚に利用され、敵国に嫁いだ可哀相な皇女、そんな憐れみの目でもいいからプラントの民衆に覚えていてほしかった。

アスランはそっと、ドレッサーの奥にしまっておいた短剣を取り出す。幾重にも布に重ねられたそれは、騎士の契約の証である。エルスマンの紋章を指でなぞればひんやりとした鉄独特の感触が指を伝う。アスランは鞘から刀身を抜くと目線より上に掲げた。長年一度も使われなかったというエルスマン家の神刀は錆一つなく、その刃に月を映している。

彼のことを考えるとひどく胸が苦しくなった。彼の言葉は気休めで、それが叶わないことを冷静になればわかることだ。本当は彼の気持ちだけで十分だったのに、あのときはどうしてか彼なら迎えに来てくれる、そんな気がしてならなかった。

仮に彼が本気で助けに来たいと思っていても、プラントが再びオーブとの戦争に勝利しなければそれは不可能に近い。しかもアスランはオーブに来てからその技術に驚かされるばかりだった。そしてプラントが戦争に負けた理由を自分なりに理解した。

いつでも冗談を言って周りを笑わせるお調子者だったがあの時のディアッカは本気で、アスランもその気になってしまった。アスランは冗談を言ったり、驚くほどプラス思考の彼が大好きだった。暗い気持ちを明るくさせる彼の持った性格はアスランには真似できない。人付き合いの苦手なアスランを皇女や女神としてではなく友人として扱った唯一の人間だった。

それがどんなにアスランを救ったか、彼はわかっていなかっただろう。そしてアスラン自身も彼がここまで自分に光を灯してくれた存在であることに気がついて、さらに胸が痛んだ。

静かに剣を鞘に収め、プラント織の布を重ねる。紐で括り、それを胸元にあてた。それから元にあった場所に隠すと音もなく引き出しを閉めた。これを取り上げられるわけにはいかない。この部屋に所狭しと置かれた贈り物のどれよりもアスランにとっては騎士の契約でもらったこの短剣が大切だった。

夫となる人にもうすぐ会えるというのに、アスランの頭はプラントばかりだった。ふと、アスランの脳裏に先日護衛に当たった少年の言葉が思い出された。純粋にアスランにオーブを好きになってほしいと言った。彼のような人間がひとりでもいるといことだけがアスランにとって救いになっている。夫になる人間もそうならばいいと思いながらも昼間会った皇帝の弟ならきっと望みは薄いだろう。そう思いながらアスランは再び空を見上げた。




***




故郷は何一つ変わらず平穏だった。

透き通った水、柔らかい風、豊かな緑。いままでそれが普通だったものがどうしてか天国のように思える。それは恐らく木の育たず、水の少ない砂漠の帝国にいたからだろう。同じ大陸にありながら違った気候を見せる二つの国は正反対だった。全王が支配していたのが信じられないくらい、この大陸は広い。

帰国して城に戻るまでにたくさんの民衆がキラを称える声をあげた。それは戦争に勝利したということと、そして地の王の血を受け継いだ皇女を娶り覇王の父となるだろう者に対する喝采だ。特に戦争に勝利してからの民衆のキラへの支持は下がることなく上がる一方で、皇位継承権を争う兄とは誰が見ても格が違った。

ユニウスから帰国して息をつく暇もなく、謁見の間に呼ばれていた。相変わらず趣味の悪い部屋だ。神々を信仰し、神官の言葉を鵜呑みにする皇帝である兄をキラは軽蔑していた。この世の中力がすべて。神々に祈ったところで結局は力のあるものが勝ち、力のないものが負けて支配される。それがわからないところが二人の兄が無能だということを示していた。

「ご苦労だったね、キラ」
「いえ、もったいないお言葉です、陛下」

玉座に座って側室の足を触りながら適当に言う王に顔をピクリとも動かさないでキラが返す。真っ白い軍服に身を纏い、跪きながら目を細めた。二人の兄の中でも特にユウナは何も出来ない。いつでも兄やキラ、大臣達に意見を求め、それがさも自分の意見のように口にする。そして都合が悪くなるとその責任を他人に押しつける。いつものことだ。彼の無能さと責任能力のなさは今に始まったことではないので気にしないでおく。ここで兄と対立してもキラが不利になるだけだ。

その椅子に座っていられるのも今のうちだ、と心の中では嘲笑いながらキラは左胸に手を当てて、片膝をつく。その動作はプラントの忠誠を誓うポーズと全く同じである。それは全王時代からの慣わしだからだ。オーブでも“忠誠を誓う"という意味合いだった。騎士制度が廃止した今でも特に皇族に対して使われる。キラは形だけの忠誠のポーズならいくらだってしてやるつもりだ。

民衆も大臣も兵も、いざとなったら皆が将軍のキラの命を聞くだろう。ユウナは側室と戯れることしか能がないのだから。

「アスランと会ったけど、とびきりの美人だったよ。面食いの君も気に入ると思うなあ。ねぇ」

不意に発せられた言葉にキラは眉を顰めた。自分の好みを勝手に決められて不快になるが、口を噤んで微笑む。笑顔を浮かべるのは得意だった。皇帝は隣にいた側室に同意を求めると側室は微笑んで顔を隠せるほどの扇子から口元を隠しながら言った。

「本当にお美しい方でしたわ。陛下も見とれていらしたのですもの」
「やだなあ、嫉妬か?しかたないなァ」

皇帝と側室の戯れなど耳に入れず、キラは溜息を吐いた。キラは結婚なんてはっきり言ってまったく興味がない。だから姫にも関心ない。

ただ、皇帝は結婚してもう八年経っているうえ側室は十人以上もいるにも関わらず後継ぎがいない。皆が皇帝はお子を作れぬ体、と言う。皇帝に後継ぎがいなければ当然次の皇帝は自分かすぐ上の兄。跡継ぎに関しては圧倒的不利に立たされているキラに後継ぎがいると断然有利になる。利用できるものは全て利用させて貰う…自分の理想のために。それまでせいぜいその椅子に座っているがいい。いずれその椅子は自分のものになる。ものにしてみせる。全てはそれからだ、とキラは心の中で呟いた。