At the time of end



王宮の長いレッドカーペットを急いで進む人物がいた。急を要しても走ってはならないという言いつけを破らず守らずの速さで進む。彼女の後を彼女と契約したばかりの騎士と彼女に情報を届けた兵士が続いていた。戦争が終結し、条約も締結した今でもまだ皇帝の戻らない国内は彼女の管轄内にあり、祝いに酔いしれていた人々は彼女の異様な慌てようを訝しむ。

「アスラン様、どうなされました?」

大臣の一人が声を掛けたが意図的に素通りをし、先を急ぐ。皇帝が帰ってくるまでドレスなど着るのではなかった、と今更になって後悔した。動きづらくて仕方がない。後ろを付いてきている兵士の言葉が本当ならば、彼女は大変な勘違いをしてしまったようだ。

「とにかく急ぐぞ、俺たちがまず状況を把握しなくては」

アスランの様子にディアッカは不審を覚えた。兵士に耳打ちされた彼女の顔色が変わったと思ったら早々とどこかに向かっている。まだディアッカに何の説明もなく、青ざめた彼女の表情はうまく窺えなかった。彼女らしくないほど混乱しているようにも思える。

三人が城外に出ると遠く――
恐らく城下町の見張り台からだろう、トランペットの音が聞こえ、アスランが苛つきを隠せずに舌打ちをする。把握するより前に皇帝が城下町に到着した。その音に民衆の歓声が続く。誰もが王の姿を見て“彼が覇王だ”と称えた。

アスランを始め、大臣や皇族が城門前に整列し跪き、皇帝の声を待つ。アスランはまだ状況も把握できていないばかりか事実さえもわかっていなかった。そして彼女以上に民衆はわかっていないだろう。

草臥れた馬から兵士に支えられるようにして降りた皇帝はゆっくりと城へと続く石畳を歩く。皇帝の騎士が二、三人ほど彼に続き、軍師が騎士に続いた。大量の鎧がこすれる音が耳についたが誰もが黙って石畳を見続ける。

「……ご帰還、お待ちしておりました」
「ああ、……名代としての任、ご苦労であった」
「有り難きお言葉にございます、皇帝陛下」

アスランが顔を上げると疲れ果てた皇帝の顔、そして天の紋章がそこにあった。その事実にアスランが愕然とし、皇帝に目で訴えると、皇帝は首を横に振った。それは彼女の予想していた最悪の事態であった。

普段とは違う姉の様子にシンは何が起こっているのか把握できないでいると、段々と周りからの歓声が小さくなっていくのがわかった。小さくなった声は一瞬沈黙になり、終いには嘆きと欷歔する声へと変わっていった。

先ほどまでお祭りモードであった国内は一転し、それに信じられなくてシンは隣に跪くアスランの顔色を窺ったが、彼女の表情は今までにないほどに歪んでおり、そこでやっと彼もこの国がどうなってしまったのか気がついた。

――戦争に負けた。

アスランは後悔していた。戦争が終結し、終戦条約が締結されたことを聞いただけで勝手に浮かれ大臣や皇族だけでなく民衆にまで勝利したことと確定付けてしまったことを。勝利した、などという情報は一切なく、本当にただ戦争が終わったという事実だけでどうして勝敗を確認しなかったのか。

戦争の勝利を祝う看板は女性たちが急いで作ったもの、並べられた料理も今まで質素な料理ばかりを口にしていただろう兵士たちのために作った馳走であり、彼女たちも久々に口にするであろうもの。多くの民衆の手から落ちたプラントの国旗。

勝利したと思っていたら敗北していたなどと言う事実を皆が受け止められずに涙を流す。そんな周囲を見ていられずアスランは目を逸らせた。自分に涙を流す資格はない。

すべてアスランの責任だった。

「殿下、参りましょう」

アスランが自己嫌悪に陥っているとディアッカが肩を叩きそれを否定する。アスランがこの国で誰よりも民衆を想い、どれだけ自分を犠牲にしてきたかは彼が一番よく知っていた。だからこそ今の痛々しい彼女を見ているのが辛い。しかし彼女の騎士になった身としてアスランを守り、誰が彼女を罵ろうとも自分だけはアスランを称え続けると決めた。

天の紋章を肩につけたオーブ兵は皇帝の案内により謁見の間へと通される。そこに皇族、大臣、一部の上流貴族が集められた。室内の空気は重々しく誰もが口を開こうとはしない。この帝国はどうなってしまうのだろうという不安が彼らの心を渦巻いていた。

皇帝の隣にいるべき正妃はやはりおらず、アスランがその空席を埋めた。皇帝に視線を送ると彼はアスランから意図的に視線を外した。アスランはそれを不審に感じるもののあまり気に留めなかった。敗北してしまったものは変えようのない事実であるが、まだ希望はある。再び国を取り戻しオーブに戦争を仕掛けることも考えられる。こうやって何千年も争ってきたのだ、今回も何も変わらない。

シンが言うようにこの大陸は血生臭い歴史で塗りたくられている。だがこの他に方法はなかった。恐らく彼らが死んでもずっとこの大陸は戦い続けるのだろう。

数人のオーブ軍人が入口を取り囲み、青い軍服を着た人間が深緑色の軍人を二人ほど連れて集められたプラント帝国の重役たちより一段高い場所に立つ。そのことからもプラントが敗戦国になったことは明白であった。

「オーブ帝国皇帝陛下のお達しを言い渡す、心して聞くように」

そう言うと軍人
――恐らくオーブ皇帝の使者は懐から筒状の書状を出す。括ってあった紐を素早く取り払うと開封口にオーブ帝国の天の紋章が姿を見せた。プラントも対になる紋章を持っており、皇帝直筆の重要な書状であるという証に使われる。開封すると丸められた書状が出てきて、使者は空になった筒を部下らしき人間に渡した。そうして自由になった両手で書状を広げる。

「一つ、プラント帝国の西地域ユニウスをオーブ領とする」

そこにいたほとんどの人間が驚きを隠せずにその言葉を聞き返す。ユニウスといえばプラントでも作物が豊富に採れ、水も豊かな数少ない農業地であり水がない年はそこから水を供給していた。それがなくなるとなれば水に苦しむプラント帝民がどうなってしまうのかは誰もがわかりきっていた。

「ユニウスは主要地域だぞ」
「無謀な!我らは水不足で滅びてしまう!」

堪えながら大臣数人が声を振り絞った。他の大臣が遮り黙るように首を振る。使者は何も聞こえないふりをして続けた。

「一つ、プラント帝国所有大型船ミネルバの謙譲」

ミネルバとはプラント帝国の新型戦闘艦である。ディアッカはそれを指揮して戦場に参じるようにと言いつかっていた。設計から完成までに三十年もかかったというプラントの技術力の結晶だ。これが狙われるということをわかっていても設計に携わっていた人間は悔しい思いをするに違いない。実際に関わった人間はここにはいないが大臣のほとんどは苦労を知っているので悔しさを堪えるように唇を噛みしめた。

「一つ、首都アプリリウスにオーブ大使館を設置」

言い方はいいがつまりは監視機関である。再び戦争を起こさないためにオーブの軍人が常にアプリリウスを監視し見張っているのだ。

皇族はその重要さに今ひとつ気がついておらずにどこか関係のない顔をしている。その中にシンの姿もあった。名代を務めていた姉とは違い、ミネルバの存在すらあやふやだった彼にとっては現実味があまりない。

戦争に負ければ処刑されたりすべての領地を奪われたり、そんなことを想像していた彼は“なんだそんなこと”程度にしか感じていなかった。命やすべての領地を奪われるよりいいではないか。命あっての物種なのだから。そう考える上流貴族や皇族は少なくなく、思ったよりも軽い要求にありがたみさえもこみ上げてくる。

「一つオーブ帝国第二皇位継承者と貴国の第一皇女の婚姻……以上」

第一皇女、という言葉にそこにいた全員の視線がアスランに集中する。そこでアスランは自分のことを言っているのだと気がついた。

ディアッカが心配そうに名を呼ぶが、自分でも怖いくらい冷静に色々な考えが浮かんでいく。どこか他人事のように感じながらもアスランの指先は小刻みに震えていた。彼の呼びかけに返事もせずに状況を把握しようと努める。

「……婚姻」

その単語がアスランが冷静に考えることを遮っていた。オーブ側の意図が全く読めない。他の三つはオーブにとって大変利益でプラントに大打撃を与えるものだが最後の婚姻だけは大して意味のないものに思えて仕方がない。名代を務めたとはいえ彼女はただの第一皇女であり、皇太子は別の人間だ。彼女を人質に差し出してもオーブには不利益にはならないが利益にもならない。アスランは自分の父親がいくら信頼を寄せている人間でも己の道に邪魔だと思ったなら切捨てる非道さを嫌と言うほど知っている。オーブも長年その皇帝と戦ってきたのだからそれは知っているはずだ。

「姉上、お気を確かに!」

シンがアスランの体を支えながら肩を叩く。自身ではきちんと自分の足でまっすぐ立っているつもりであったがようだが周囲にはそうは見えていなかった。微動だにしないと思ったら虚ろな目になり左右に揺れだした彼女を誰もが不審に思う。

「陛下、このような終戦条約に調印なさったのですか!」
「ミネルバや皇女殿下はともかく、ユニウスは死活問題です!お考え直しください」
「ともかくってなんだよ!姉上がいなけりゃアンタたちだって今頃生きてないくせに!」

大臣が言うことは尤もであったが、視野の狭いシンにはそれがわからず、姉への扱いがぞんざいなのが許せなかった。彼にとってユニウスより、ミネルバよりアスランの方がずっと大切な存在だった。ディアッカが咄嗟にシンを制止に走ったが間に合わずに騒々しい閲覧の間にシンの声が響く。

「皇太子、なんという言葉遣いをなさります!」
「プラントが攻められた時城に籠もってるだけで何もしようとしなかったくせに!都合のいいときだけ姉上にすがっておい……」

暴走しかけたシンを制止したのは他でもないアスランだった。アスランは少しきつい声色で彼の名を呼んだ。シンはその声に仕方なく黙る。納得がいかない表情のシンにアスランが彼にだけ聞こえるよう感謝の言葉を告げた。

「姉上……」

シンはディアッカに視線を向け同意を求める。しかし彼も又これまでにないほど悔しそうな表情で俯いていた。握りしめり過ぎて真っ赤になった拳からは微量の血が滴れている。それを見てシンの心は掻き乱された。先ほどまでオーブに有り難いなどと思ってしまった自分が恥ずかしい。だが彼にとっての最大の理解者であり、一番大切な姉が事実上の人質として遠くに連れて行かれてしまうことの方が土地を取られたり戦艦を取られたりするよりもずっと辛い。それは自分でも子供じみているとわかっていた。

「臣下の皆様、反対なさるなら条約を早々とお破りになっても結構ですよ?ただし……」

青色の軍服を着た軍人は上目遣いになりながら口元を吊り上げた。そこにいる人間すべてが息を呑む。

「そうなれば我が帝国はこの国全土を破壊し続けます。国がなくなるよりは大分ましだと思われますが。この条約は全王の子孫である、いわば同族への情けです。陛下とて同じ全王の子孫であるプラント皇帝陛下をあやめたくはないと心を痛めておいでですし。我が帝国皇帝陛下に感謝してもいいくらいですぞ」

厭らしい笑みを浮かべた使者にそれまで条約を撤回すべきと騒ぎ立てていた大臣たちの声は消えていった。皆、額に汗を浮かべながら口を真一文字に結ぶ。国を焼かれてしまえばプラント何万人の民が再び苦しい思いをする。

今はこれに従う以外術はない。

「陛下」

アスランが沈黙を破った。一歩前に出て皇帝に一礼する。皇帝に意見を述べるときの“私が今から陛下に申し上げます”という意味を込めた行動である。会議や緊急を除いて、特に正式な場では皇族や貴族も含んだ人々がそれを義務づけられていた。それによって一人一人が自分の意見に責任を持つことができるというのが大きな意味だが、他には文官が誰が何と言ったのか記録しやすく、賞罰や後に残す文献を記しやすくなるという理由があった。自らが条約に名が載っているアスランの意見に誰もが耳を傾ける。

「覇王のお導きとあらば、私は謹んでお受けいたします」

アスランは一句一句区切り、自分の意志を主張した。今すぐに戦争をしようとする一部の大臣を牽制する。今の彼らは冷静さが欠けている。すぐに戦争をすれば使者の言うとおり今度はプラント帝国が滅亡してしまうことは明白だ。帝国のために一度死を覚悟したアスランは帝国のために身を犠牲にするこなど、どうってことない。

そう思いながらも内心ではオーブに対する憎しみと敵愾心でアスランの心は埋め尽くされていた。