こころとこころ

裕福な人間ばかりが軒を連ねる住宅街の中でも特に大きな屋敷の門の前に立つ三人の学生はどこからどう見ても妖しかった。そのうちのひとり、しかも女性の左頬は腫れ上がっている。それが更に光景を異様にさせている。彼らを誰が見ても血縁関係にあると思わないだろう。

閑静な住宅街に聞こえる音は不思議となかった。沈黙が続く三人の間を生温い空気が抜けていく。蒸し暑いくらいの温度が夕方になると大分心地よくなる。

沈黙を破ったのは、怒りに肩を震わせるシンだった。歩道の外でぼんやり立っているキラに駆け寄っていく。異常なまでの足音が静かな町に響いた。

「人を馬鹿にしておいて……一番馬鹿はアンタじゃないか!」

シンがキラの肩を掴み、前後に振った。キラは苦笑する。珍しく、言い返す言葉が見つからなかった。シンの言葉は尤もである。それは彼自身わかっていることだった。いつものように軽く捻り上げることも今はできそうになかった。

「貴方の娘と結ばれる運命なんて言われたら、誰でも怒るっつーの!」
「はは、そんなこと言ったね」

先ほどアスランとは交差しない運命だと思っていたのに、つい感情に任せて全てをぶちまけてしまった。今考えると支離滅裂で意味不明なことばかりを言っていた気がするが、最初の方は特に間違ったことは言っていないと彼は確信していた。

未来の真実をキラ自身理解できてるわけではなかった。今のアスランとキラの関係では進展することは難しい。キラもアスランもお互いに恋愛感情はないのだ。口付けはシンを助けるためと、カガリの悔しがる顔を見たかったため。他に理由はなかった。

キラはアスランに惹かれるものがないのだ。それはアスランも同じことだった。お互い違いすぎて交差しない。運命の悪戯でそうなってしまったことは、シンが来たことで回避されたのかもしれない。キラ自身、運命なんて信じるロマンチストではない。不倫もすれば略奪もする。セックスさえできればなんでもいいと思っている男の底辺。

しかし、それでも譲れないものはあった。目の前で理不尽なことが起きればキラの奥底にある正義が目を覚ます。当人が耐えていれば尚更だ。部外者だと言うことは理解しているが、それでも口を出さずにはいられなかった。

まるで嫌悪している兄のようだとキラは自嘲する。彼の偽善が嫌いだったはずなのに。

「でも、なんていうか。黙っていられなかった」

キラは恐る恐るアスランを見つめる。腕の中にいたはずのアスランもキラを見つめていた。いつものように無表情だが、いつもと違うのは彼女がキラを見つめていることだった。透き通った翠色の瞳がキラを射抜く。想像以上の美しさにキラは息を呑んだ。それでも作り物のようだった。

彼女を前にして言葉が見つからない。しかし何か言わなくてはと必死に言葉を探した。

キラは悪いことをしたとは思っていないが、アスランが迷惑しているのは明らかだった。悪いと思っていないことをどう表現すればいいのか、わからない。畏まった謝罪の言葉が頭に浮かぶが、やはりうまく纏まらない。

「えっと、僕は……じゃなくて、んと……」

焦ったキラがしどろもどろでも、アスランはキラから視線を離さなかった。黙ったままで彼の話を聞いている。無表情のため顔色が窺えなかった。それが更にキラを焦らせる。彼女の反応が怖かった。

「ああいうの、許せなかった。君を道具みたいに言って……殴るなんて、で……僕は頭に血が上っちゃって」

言い訳じみた言葉にキラは嫌悪する。言うべき言葉は他にあるはずなのに中々出てこようとしない。それでもどうしてキラが彼にたてついたのかアスランにはわかってほしかった。

今でも迫るパトリックを容易に思い出すことができる。アスランに似て、しかし彼女よりずっと威圧感があった。向かい合っているときは怒らせることで自分の恐怖を封じ込めていたが、もう二度と会いたくないと思っていた。テレビに出てもチャンネルを変えるはずだ。

キラは二度と会わないことも可能だが、アスランは恐らく彼が死ぬまで顔を合わせることとなる。死んでもその繋がりが消え去ることは永遠にない。彼女に同情した。

腫れ上がる頬。整った顔を台無しにする朱は紅潮した頬とは全く違った。キラは額に手を当ててアスランの瞳を見る。見透かされていそうな瞳が彼に緊張を与える。

「でも、色々と余計なこと口走っちゃって……なんていうか、本当に……ごめん」

キラは素直に頭を下げた。彼女のことだから、そんなことも無視するだろうか。それとも殴るだろうか。どちらにせよ、彼は受け入れねばならない。アスランはあくまでも穏便に済ませようとしていたのに暴走して引っ掻き回したのはキラだ。

頭を下げたままキラはアスランの白い脚を眺めた。美脚と呼ぶに相応しいそこからは彼女の様子は窺えない。暫く何も口にしないまま、時が過ぎていく。やっとアスランが口を開いたのはキラの頭に血が上りかけたときだった。

「……俺は、ザラのためにと育てられた。だから父上に何をされようと我慢する。お前が気にすることはない。お前の家にルールがあるように、うちにもうちのルールがある。それが他よりも厳しいだけだ。無意味に首を突っ込んでもらっては迷惑だ」

遮るアスランのトーンはいつも通り一直線だった。高くもなく低くもないそれは彼女の父親にそっくりである。彼女の言葉はやはり正論で、しかしキラは納得できなかった。キラは反論しようと頭を上げると、少し呆れた表情の彼女がいる。白い頬が真っ赤に腫れていた。

「俺が何を言おうと何も変わらない。お前のせいで父上はかなりお怒りだし、俺はそのとばっちりだ。本当にどうしてくれるんだ」

睨み付けるアスランにキラはもう一度謝った。その誠意が通じていればいいが、恐らく無理だろう。シンがその緊張感のある空気に入らないように少し離れた場所で彼らの様子を見ていた。

「でも……お前が父上に口答えしてくれたときは、嬉しかった」

キラは自分の耳を疑った。単調すぎる話し方は感情が伝わらない。嬉しかったという割には眉間に皺が寄っていて、明らかに困惑している表情だった。

あまりにそれが険しかったので、聞き間違いではないかと彼女の瞳を見つめながら声にならない声を発していた。あまりに強い瞳に吸い込まれそうになる。

「ありがとう……キラ」

キラは驚倒した。十八年生きてきた人生の中で一二を争うほどの驚きだった。人工的に作られたような口調で無視し続けていたはずの彼女からの感謝の言葉。そして一度も発したことのなかった名前を呼ばれ、体の奥が熱く、疼いた。

かつて名前を呼ばれて息が詰まりそうになったことがあっただろうかと自分の記憶を辿るが、そんなことは一度もない。体中が痺れ、鳥肌が立った。自他認める整った顔が驚きに固まる。彼女から発せられたたった二文字の言葉でここまで自分が乱れるとは予想も出来なかった。

そして何より、彼を驚かせたのはアスラン・ザラの表情だ。いつも無表情しか見ていなかった彼は彼女が向けているそれが一瞬何なのかわからなかった。目を見開いたまま、それを凝視し、固まる。文字通り彼の時が止まった。キラは彼女に心を奪われてしまったのだ。

それが彼女なりの精一杯の笑顔だと気がつくと、キラは胸元を中心に熱が集まるのを感じる。小さな笑顔だとしても、初めて向けられるもの。あまりに衝撃的で印象的で、キラは五感の全てを奪われる。全ての感情が抜けていった。

アスランはやっとキラから視線を外すと、俯いてしまう。キラが赤く腫れ上がった頬に触れても彼女は抵抗しなかった。触れた瞬間にあまりの温度差に小さく震える。しかし、すぐさま我に戻ったアスランがキラの手を振り払った。

アスランの心にもある変化が起きていた。キラ・ヤマトという人物に対しての感情である。彼女は生まれて十数年間、父親に一度たりとも反抗せず、彼の言うとおりの人間として生きてきた。ザラ家の重圧に耐え、結果を求められても賞誉の言葉一つ彼はくれなかった。それが当然だったからだ。縛り付けられ藻掻いても、そこから抜け出すことは敵わない。父の言動は彼女の全てであり、家のために尽くすことが自分の人生なのだとアスランは思っていた。

しかし、それを彼は打ち破った。彼女が十数年掛けても言えなかった言葉を、絶対的な存在へと叩きつけたのだ。それは今までの他人を軽視するような態度の彼ではなかった。自分の意見を持ち、異を唱える姿。アスランは彼の言葉に胸を打たれ、モノクロだった世界が彩っているように感じた。枠を壊したのは、軽くて、性格が悪くて、女たらしで、大嫌いだったはずの男。

自分の中にこれまでにはない温かい感情が芽生え、アスランは困惑していた。その気持ちに名前を付けることが怖くて、必死に否定をする。そんなことはあり得るはずがなかった。問題ならば答えを導き出すことが簡単なのに、今の彼女はそれが出来ない。まだ数式すら完成していなかった。

時が止まったように動かないキラとアスランを、シンは見つめていた。にらみ合っているのではなく、見つめ合っている彼らは周りから見ても異常である。しかし彼にはわかっていた。恐らく当人達よりも、彼がキラとアスランの気持ちの変化を知っている。

なぜならば彼は二人の子供だからだ。先ほど感じた心地よい温かみに包まれ、動けなくなった。あまりにそこが気持ちよくて、彼らを引き離すことができなかった。波打つ鼓動は彼らが少し触れ合うだけで、起こる。見つめ合っただけでもシンの体は熱くなった。そして今、シンの心音は早鐘を打っている。手も足も自分の物ではないような感覚に陥る。今、こうしている間にも、キラとアスランの心の距離は縮まっていることを感じながら、シンは温もりに身を任せた。




22.take away