禁忌 |
アスランはソファに寝転がりながら電子書籍の流れる文字を読んでいた。食事の片付けと入浴の合間の読書の時間を彼女は好んでいる。ゆったりと過ごせる唯一の時間だった。二人では広すぎるリビングの一角にあるソファは十人ほどが腰を掛けられる。以前は党の幹部達が集まることもあったが、母親がおらず父親がほとんど帰ってこない今となってはその席が埋まることはない。 上体を動かしたアスランは鈍い痛みに目を細める。不思議に思い左手首を見てみるとうっすらと痣が出来ている。どこかにぶつけたのかと記憶を辿ると、昼間キラに掴まれたことを思い出す。 ――カガリの弟に掴まれた時のか 何かに接触すると小さな痛みを発すが、口に出すほどのものではない。彼も物好きだ。大抵の男はアスランの態度にすぐ諦めるというのに、彼は今でも向かってくる。その理由が彼女に破局を迫られているためだとカガリから聞いていた。そして彼から兄弟仲が悪いことも耳にしている。その原因はキラがカガリの彼女を奪ったことに原因があるのだという。 アスランは興味がないが、とばっちりを受けるのは御免だった。シンのことは大切に思って信頼をしているが、だからといって彼を産む気にはなれなかった彼の話では特に何もしなくても彼は消滅するわけではないらしい。仮に消えるのだとしても、それが運命と受け入れてもらうしかない。それほどにアスランはキラを軽蔑していた。 キラが言い寄ることでアスランは周囲に変な目で見られている。教師達に呼び出されて注意を受けたり、友人のカガリと付き合っているふりをしたり。皆の見ている前でキスをしたため、レズビアン説と男嫌い説がなくなり、告白する人間が増えたのも事実である。 周囲が変化を見せる中、シンだけは違っていた。彼だけは常にアスランを支え、傍にいてくれる。そんな彼を何よりも大事にしていた。母性愛なのだとカガリが言うが、アスランはそれを否定し続けている。名を付けることのできない感情だからだ。見返りなどないのに必死に自分のために何かをしてくれる人間は初めてだった。 「アスランさん?」 暫くすると、食器の片付けが終わったシンがリビングへとやってくる。ソファに横になりながら寝息を立てる彼女に声を掛けるが反応はない。電子書籍の電源をオフにすると軽く彼女を揺すった。 寝返ったアスランの顔は幼く、顔に髪がかかっている。シンはそれを丁寧に払ってやった。そして彼女の髪に触れる。柔らかい感触に何度も何度も彼女の藍色の髪を梳いた。髪の毛はシンの指をすり抜け、砂のようにこぼれ落ちていく。シンが小さく笑うと、アスランがくすぐったそうに身を捩った。 それにやっと現実に引き戻されたシンは今まで自分がしていた行動に気がつき、恥ずかしくなった。自分でもわかるくらい体温が上昇し、後退りをした。咳払いをし、出来るだけ大声で彼女を起こそうとする。しかし、アスランは一向に起きる気配はなかった。 困り果てたシンは数分ほど考えた後、彼女を部屋に運ぶことに決めた。膝を立てて座るとソファとアスランの体の間に手を差し込み、ゆっくりと彼女の体を引き寄せる。転がり込むようにして腕の中に収まったアスランは想像以上に柔らかかった。しかし、母親の時の彼女に比べればやはり骨が浮き出ているため、それ程ではなかった。 薄く開いた唇から吐息が溢れる。シンは生唾を飲み込み、彼女を持ち上げる。意識がないためやや重く感じるが、男のシンには気にならない程度の体重だ。未来の彼女に軽々と抱き上げている記憶のあるシンにはなんだか妙だ。 ――母さん……なんだよ。この人は 何度も呟くシンはその言葉で邪な考えを振り払う。彼女を運ぶのは息子として当然の行為だ。それ以上でもそれ以下でもあってはならない。 シンが彼女の部屋に足を運ぶと、部屋は数式が溢れていた。たくさんの書籍がデスクに積まれ、母の研究室が記憶過ぎる。シンが時空を飛ぶために使ったトリィと、彼女の作ったトリィが並べられている。見かけはそっくりだった。 『やめなさい。それをこっちに返すんだ。それがどんな物かわかってないだろう』 『わかってるよ。時間を遡るんだろ!』 『シン、よせ。やめろ、行くな!!』 『母さん、ごめん』 研究所から落下しながら必死に手を伸ばす母親がいた。研究に没頭するあまり何も見えていない彼女だったが、泣き叫んで自分も飛び降りようとしていた。違う手が彼女を引き、それを阻止したが、シンがその時間を飛ぶまで声は聞こえ続けた。 シンは毎晩のように夢に見るのだ。置いていかないでくれと泣き叫ぶ母親に反抗してしまったことを心のどこかで悔いていた。だから、シンが胸の痛みに苦しんだときに母親と同じ言葉を発したとき、罪悪感でいっぱいになった。 ――帰れないのなら、彼女の傍にいたい…… シンはアスランをベッドに寝かせると、アスランの藍色が枕に散らばった。カーテンの開いている窓から差し込む外の光に照らされて小刻みに輝く。まるで夜空とそこに光る星々のようだと思った。シンの持っている黒と微妙に違い、青みが掛かったその髪がシンは好んでいる。 「俺、アンタが……あなたのことが」 最後まで言い切れず、シンは俯く。続きを言えばきっと戻れなくなる。シンがベッドに体重を掛けると警報が鳴った。胸を刺す痛みは小さい。しかしこれ以上進むなという神のお告げのようだった。 ――この人は俺を生んでくれた人。母親。 繰り返すことで自分の感情を抑え込もうと努める。しかし、シンは警報を無視した。ゆっくりと彼女に顔を近づけ、そっと口付けをする。禁断の味は無味だった。その柔らかい感触は一瞬だったが、シンには永遠のようにも思える。ずっと重ねていたいと願った。 しかしそれを許さないのは彼に流れる血。 「うああぁっ」 彼に天罰が下った。今までとは比べものにならないほどに胸が刺されたような痛みに襲われる。胸全体にまで及ぶその痛みは禁断を犯したシンには妥当な仕置きだった。 立つ力を失ったシンはその場に崩れてしまう。左胸を掴むと必死に肩で呼吸を繰り返す。しかし中々酸素が体に入ってこなかった。体中が熱く、燃え上がりそうな感覚は脳までも冒していく。気を失いそうになりながら、シンは一心不乱にアスランへと手を伸ばした。 彼女に口付けをしたことが例え許されない行為だとしても、後悔はなかった。 シンは這い蹲ったまま結局彼女まで手が届かず、その血のような紅い瞳をゆっくりと閉じた。 |
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